河童の裏庭

雑多な感じ

短い靴下を履く最近のJKに思うこと

 

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――最近のJKというのは、短めの靴下を履いて素足を多めに露出させる、というのが

"今風"なんだそうだ。

どうやら短い靴下の方が素足が見える面積が増えるため、脚が細く、長く見えるとか、ガーリーでお洒落な雰囲気を醸し出すことがてきるとか色々理由があるようで、いかに自分を可愛く見せるか?ということにエネルギーを注いでいる彼女らのその健気さと計算高さにはいつも感心させられる。


 

やれーーJKの足元というのは時代の経過とともに、それはもうめまぐるしく変化してきた。
ルーズソックスが爆発的に広がったと思えば、いつの間にかハイソックスが流行りだし、ルーズソックスは過去の産物と化した。そうかと認識していたのも束の間、今度はハイソックスの上からルーズソックスを履くというスタイルが流行りだしたりなんだで、今では短めの靴下が主流になっているという...

 

何がすごいって、ルーズソックスもハイソックスも短めの靴下もすべて、「脚を細く見せる」効果があると期待してのものだという。
時代は違えど目指すべき方向性が全くブレていない彼女らの芯の強さに、敬意を払わずにはいられない。


 

にしても、こういうファッションの流行り廃りって、別にJKに限らずどこが火付け役になって広まっていくのか全く想像もつかない。
流行り出して皆が履きだすのか、それとも皆が履きだしたから流行りが生まれるのか、タマゴが先か鶏が先か?このジレンマの謎は解けそうにない。

 

――とにかく、短い靴下が"今風"である以上、流行りを気にする彼女らはそれに乗らずにはいられない、流行りに乗れなければJKではなくなってしまうのだ。



が、この短い靴下には侃侃諤諤な意見があるようで、脚が細く見えて可愛いという意見もあれば、ハイソックスの方が清楚っぽくて良い等という意見もあり、今日もまたどこかで、変態達による論争が繰り広げられている。



 

さて、じゃあ僕はどうなのかというと、短い靴下、アリだと思う。
これは別に、短い靴下を履くJKの脚のフォルムが~~とか、ガーリーっぽい雰囲気が~~とか、そういう個人的な好き嫌い、性癖に基づく変態的思考では無い。

...本当だぞ 僕を変な目で見るな。


――僕は恐らく、流行りに乗ったファッションに身を包むjkが好きなのだ。
ルーズソックスを履いているか、短い靴下を履いているか、そこは重要では無い。
今を燦めくJK流行りのファッションを身につけていることに意味があり、魅力的なのだ。


つい最近まで、JKといえばハイソックスという認識があったために、学園モノのドラマやコスプレなんかでは、ハイソックスを履いているパターンが多い。
ハイソックスは最早一世代前の過去のファッションになりつつあるのに、だ。

世間がそんな前時代的なJK観に囚われている中で、流行りの最先端たる短い靴下のJKを街中なんかで見ると、そのJKが芸能人やコスプレイヤーが演じている前時代的な贋JKではなく、今をときめくキャピキャピのJKそのものだということを、痛烈に感じさせる。


そこにJKの可愛さが宿るのだ。


どんなにルーズソックスに可愛さを感じようと、ハイソックスに清楚っぽさを見出そうと、それらは既に過ぎ去った過去の流行でしかない。そのファッションをどれほど個人的に好いていたとしても、過ぎ去ったファッションとしてどこか古臭いイメージを伴って見てしまう。

僕は今を燦めくJKが好きなのであり、今流行っている短い靴下はそれを感じさせるアイテムでしかない。

 

そのため、もし仮に、来年あたりにJKの流行りのファッションとして、草鞋足袋なんてトンデモない流行りが生まれたとしよう。

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「今年の足元は江戸時代風で決まり!」なんてトンデモな女性雑誌のメッセージに踊らされ、こぞって草鞋足袋を履くJKに対しても、恐らく僕は、そのJK達に可愛さを感じてしまうだろう。

 

 

流行りに乗るJKにこそ価値があるのだから。




 

 

 

――ただどうか、草鞋足袋だけは流行らないでほしいと願う。






「リア充」という概念が怖い

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インターネットスラングとしてうまれたリア充という言葉、この言葉がネットの世界を飛び出して、学生を始めとする若い人達の共通認識として跋扈していることに、雑然とした恐怖を感じるのは僕だけか。

 


この「リア充」という言葉、使う場面や使う人の認識により意味は若干異なれど 、

実際の現実の生活(リアル生活)が充実している人間のこと。
恋人や友人付き合いに恵まれる
サークル活動や飲み会へ参加する

(はてなキーワードより)

と、まぁこんなような定義が一般化しているようで、実際僕の周りで耳にする「リア充」の意味も、大体こんな感じだ。


2ちゃんねるから生まれたこのインターネットスラングは、言葉のシンプルさとか汎用性の高さもあってか、いつの間にか爆発的に普及し、今や完全に若者言葉として定着している。

事実、2011年には女子中高生ケータイ流行語大賞の金賞に抜擢されている。...金賞ですよ、金賞。
一体この賞がどんなものなのかいまいちピンとこないが、渋谷かどっかで「まじヤベェ」とか息巻いてる女子中高生にまで「リア充」という言葉が浸透しきっていることを意味するのだろう、きっと。

 

そんなこんなで「リア充」が定着していったわけだが、最近はもう、このリア充というワードが、リアルが充実している様子を表す"言葉"を通り越して、その人の人生の充実具合を測る"基準"として、概念化してしまっているように思えて仕方がない。そのことに一抹の怖さを感じる。

 

高校生や大学生、社会に出る前の段階にある彼ら学生にとって、友達の多さとか、恋人の有無とか、飲み会の多さなんかが、充実具合を図る基準として、一種のステータスのように語られるのはまぁ、至極当然のことだと思う。これ自体はきっと、「リア充」という言葉が世に生み出される前にも、何となく存在はしていたんだろう。


ーーが、「リア充」という言葉が一般化した今や、友達の多さとか恋人の有無だとかの基準が明確化し、その研ぎ澄まされた基準によって、僕たちの人生の充実具合を測られてしまっているような気がしてならない。
リア充の定義や基準が若者の中には明確にインプットされ、それらを満足に満たせないと、周囲から「アイツはリア充ではない」という烙印を押されてしまう。


この不名誉な烙印が押されることを恐れるあまり、僕は実生活で自分を殺し、「リア充」であることを演じるというケースがしばしばある。
酒の席で普段以上に明るく振る舞ってみたり、チャラめなサークルに顔を出して人脈を築こうとしたり...そういった仮面の振る舞いを、どこか背伸びして行っている節がある。
本心からそうすることを望んでいたわけではないし、その振る舞いが自分のありのままの姿かというと断じてそうではない。
僕の頭の中のどこかには、リア充として振舞わなければ」という強迫観念が存在し、リア充と認識してほしい」という自尊心がべったりとこびりついていた。


そんなだから僕は、飲み会だとかバーベキューだとか、そういう所謂リア充的なイベントに参加すると、途端に安堵感に包まれる。
勿論、気心知れた友人や先輩後輩と飲んだりするのは実際楽しい時間で、有意義なものだと思う。が、そういった感情より先に、リア充的な振る舞いが出来ている」ということに、底知れぬ安心を覚えてしまう。


ーーもうなんだか、僕の行住坐臥全てが、リア充的かどうか」でカテゴライズされてるような気さえしてきた。


勿論、自分のリアルが充実しているかどうかなんて、他の誰でもない僕によって測られるべきだ。
仮に僕のリアルがリア充の定義から外れるようなものだとしても、僕が人生を楽しいと思えれば、その主観を大切に受容してあげさえすればそれでいい。
...筈なのだが、どうしても周囲からリア充ではない」という烙印を押し当てられることに抵抗がある。そんなのを物ともせずに堂々としていられたらそれが一番なんだろうが、どうにも僕はそこまで強い人間じゃないらしい。

 

 

ーーだから僕はリア充という概念が怖い。
現実世界の充実具合なんていう、本来主観的な基準を、「リア充」という他人が作った基準に落とし込んで考えてしまう歪さが怖いし、その他人が作った基準が一般化し、常にその物差しで自身が測定されているかと思うとゾクゾクする。

 

リア充という概念が一般化した今、周囲の人から「アイツはリア充ではない」と思われないよう、怯えながら過ごしている。

田舎で語られる、雪に関する言い伝えの話

 

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僕の地元には「山に3回雪が積もると、雪が人里に降りてくる」という言い伝えがある。
自然豊かな田舎に根付くこの言い伝えは、言葉通り、遠く聳える山に3度雪が積もれば、里にも雪が降り始める...という意味だ。僕はこの伝聞が何故だか異様に好きで、冬になるたびこの言葉が頭をよぎる。

 

 

 

ーー勿論、この言い伝えには何の科学的根拠もない。山に1度雪が積もったと思ったら、次の日には町にも雪がしんしんと降っている...なんてこともザラで、冷静に観測してみるとてんで当てにならない言い伝えだ。テレビの天気予報でも見た方が、よっぽど明確に降雪の有無を知ることができるだろう。

 

にも関わらず、僕の町では「山に3回雪が降ると、人里にも雪が降る」という言い伝えが、まことしやかに語られている。両親や祖父母も、学校の先生も、近所のおっちゃんおばちゃんも、冬になると皆こぞってこの言い伝えを口にし、遠く聳える山々を観測し始める。
「あの山の白いのは1回目やろか」
「こないだも積もってたから2回目やないか?」
「そいじゃそろそろかねえ?」
といった具合で積雪へのカウントダウンが始まり、天気予報など全く意に介さず、町全体がこの言い伝えを持ち上げ、嘯きだすのだ。


無論僕も例外ではなく、この言い伝えを盲信していた1人だ。小さい頃、寒い冬の朝、雪が降るのを待ち遠しく思いながら、毎朝遠くの山々を見上げていたのが懐かしい。

 

ーー雪の中で遊ぶことは、子どもの頃の僕には凄く刺激的なことだった。そりに雪合戦に雪山探検、あらゆる遊びがいつもとは違う、非日常に彩られたもので、雪が降るたびにワクワクし、心が躍った。

そんな雪への憧憬を、白くなりつつある山を見上げることで、町全体で共有していた。「山に3回雪が降ると、人里にも雪が降りてくる」という根も葉もない言い伝えを信じて、「そろそろ里にも雪が降るんじゃないか」と町全体がそわそわしだす、あの独特な空気感が堪らなく好きだった。

 

 

 

ーー天気予報も何もない時代、山の状態から天候を読み取り、生活に役立てていた先人達の知恵が言い伝えとなって、正確無比な天気予報が存在する今尚、連綿と語り継がれ、定着しているのだ。
「雪がいつ降るかなんて天気予報見たらすぐ分かるじゃん」などという無粋な突っ込みはどうか控えてもらいたい。

まだかまだかと雪に想いを馳せながら、毎朝部屋の窓から山を見上げるあのワクワク感は、どうにも言葉では上手く書き表せないが、僕の中では確かに、冬の風物詩として今なお息づいているのだ。

ランニングを趣味にするということ

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「ランニングが趣味です」
この言葉を聞いただけで、あなたは何となくその人のことを、健康的で爽やかな人であると思うだろう。あまつさえ、スポーツ万能だとか、細マッチョだとか、イケメンというイメージすら抱くかもしれない。



 

――さて、僕の趣味はランニングである。

どうだ、これを読んでいるあなたは、まだ顔も見たことすらない僕のことを、健康的でスポーツ万能で細マッチョな福士蒼汰だと認識するだろう。まぁ大同小異あるが、その通りである。
細かい違いをあげていくと、僕は毎日のように夜食を貪りタバコを吸い、およそ健康的とは言い難い毎日を送っている。スポーツというスポーツも特に得意でもなく、中学時代のサッカー部ではベンチの座に甘んじていたし、勿論福士蒼汰ではない...が、整形すればかろうじて福士蒼汰っぽい顔にはなれるだろう。...まぁこんなことは瑣末なことで、いちいち細かい違いを探すなんて野暮ったい真似はやめてほしい。




――しかし、僕はランニングが趣味と言い張っているくせに、そのランニングを殆どしていない。稀に、何だかよくわからないフレッシュパワーで満ち溢れた時は意を決して外を走るが、大体それは年に一度あるかないか、一年間一度もランニングに繰り出さないこともザラにある。

これだけ読むと「は?」となること受け合いだろう。ややもすると、「ふざけるな!」と激昂する人もいるかもしれない。それでも僕の趣味はランニングであり、「趣味はランニングです」と言い張ることをやめない。やめたくない。僕の趣味はランニングであってほしいし、「趣味はランニング」という言葉のフィルターを通して、健康的でスポーツ万能な福士蒼汰であると人々に認識されたい

 

 

――やれ、ランニングの効能として、激しい有酸素運動により血流がよくなり新陳代謝を高めるだとか、忍耐力が身に付き身体的にも精神的にも疲れにくくなるだとか色々言われているが、そんなこたぁどうでもいい。僕は人々から、健康的でスポーツ万能な福士蒼汰と思われたいからランニングを趣味にしているのであって、そのほかの事、新陳代謝とか忍耐力とか疲れにくくなるだとか、至極どうでもいい。
とどのつまり、自分をカッコよく見せたいという承認欲求それのみに基づいてランニングを趣味にしており、僕は福士蒼汰になるために走っているのだ。


そのために僕は普段からランニングシューズを好んで履く。iPhoneのミュージックには「ランニング用①」「ランニング用②」などといったいつ使うかも分からない、アップテンポな曲達で構成されたプレイリストが居座っている。大して走ってもいないのにランニング好きであることを装い、「暇さえあれば走ってますが、それが何か?」的なスタンスをキメながら、周囲にそれとなくアピールしている。

その上、趣味はランニングと言い張り自分自身に暗示をかけることで、健康的な生活を送っていると自らを騙し続けている。連日夜食を貪りタバコを吹かす不健康極まりない毎日を送ることへの背徳感を、ランニングという健康的なイメージを持ってして帳消しにし、不健康な毎日を正当化している。

 

ランニングを趣味にしていることで、僕は健康的でスポーツ万能な福士蒼汰になれるし、不健康極まりないであろう連日連夜の夜食も安心して楽しむことができるのだ。年に一度くらいしか走っていない癖に、ランニングの甘い汁を吸い続けている僕は、もうランニング無くして生きてはいけない体になってしまった。

 

だからこれからも、年に一度しか走らなくとも「趣味はランニング」と周囲に喧伝して止まないだろうし、そうすることで、ランニングをこよなく愛している自分というものを醸成し続けるのだろう、きっと。

カラオケの「最初の一曲」を巡って

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友人とカラオケに行き、最初の一曲をどちらが歌うか?という所で、目に見えない壮絶な駆け引きがなされているのはご存じだろうか。

「先歌っていいよ」

「いや、だりぃからいいわ」

「いやいや、俺トイレ行きたいし」

「いやいやいや、俺もトイレ行きたいし」

こんなような具合で、お互い最初の1曲を譲り合う

さっきまで「カラオケ行こうぜ」と軽々しく騒いでいたとは思えない、何とも言えぬ緊張感が空間一面を支配しているのだ。

 

日本人は謙虚で礼を重んじ、相手を尊重し譲り合いの心を持つ…ともすれば日本人の国民性をこんな言葉で着飾り、褒め称えてくれる外国人がいるが、あれは嘘だ。

あの譲り合いは謙虚さからくるものではないことを僕は知っている。

あれはお互いの歌唱力…もとい、戦闘力を測ろうとしての「譲り合い」なのだ。

 

 

――まったく、人というのは、恥をかくことを極度に嫌う。それが気心知れた友人の前であればなおのことだ。カラオケは「皆で歌って楽しむもの」という認識が一般的だが、あんなものは嘘っぱちだ。虚飾塗れの妄言と言っていい。実際は、血で血を洗う闘争が繰り広げられるコロシアムとでも言ったほうがよっぽど的確だ。

 

―そう、カラオケには確かに勝敗が存在する。皆も感じたことがある筈だ。

自分よりべらぼうに歌唱力のある友人と二人でカラオケに行った際、そこに「皆で歌って楽しむ」なんて生やさしい感情は生まれない。痛感するはただただ己の無力感、それだけだ。

カラオケで敗者となった者は、歌うこと以外することのない閉鎖空間において、相手の美声に憤りを感じながら己の無力さを恥じ、いざ自分の番になれば、勝てないと分かりきっている勝負のステージに上らねばならず、相手よりも遥かに程度の低い歌唱力を曝け出さなければならない。何たる苦痛…何たる醜態…もういっそひと思いに殺してくれ。

――まったく、これだけ聞くと、何故金を払ってこんな罰ゲームに参加しなきゃならんのだと思うが、それを補って余りあるほどの美酒が勝者には用意され、それによってカラオケというコンテンツは成り立っているのだ。

カラオケにおける勝者―つまり相手よりも歌唱力が優れていた場合はどうなるか?鎧袖一触で相手を嬲り倒す快感に何時間も浸ることが許されるのである。ドリンクバーで注いだコーラはビンテージ物の赤ワインに早変わりし、安っぽい部屋の内装は絢爛豪華な宮殿の一室へと変貌を遂げる。高々と足を組み、敗者を見下しながら快感に浸り続けることを許される、極楽浄土の空間を堪能できるのだ。

 

 

「暇だしカラオケ行こうぜ」こんな飄々とした軽い言葉で誘ってこそいるものの、その裏では自分が勝者の座に君臨出来るのか、それとも敗者に身を窶してしまうのか、戦々恐々とした心理がフルに働いているのだ。

…それ故最初の1曲というのは敬遠されがちなのだ。武士どうしが初めて剣を交える瞬間なのだから。

この立ち合い、先手は自身の最大の力を出し切り全力で歌う選択肢しかないのであるが、後手に回れば応用が効く。先に歌った相手の戦闘力にひれ伏すしかないと感じれば、ネタに走る、仮病を装う、或いは静かに部屋を出てそのまま自宅に帰ることすら選択肢の一つに成り得る。正に「柔よく剛を制す」である。

 

 

「先歌っていいよ」

「いや、だりぃからいいわ」

「いやいや、俺トイレ行きたいし」

「いやいやいや、俺もトイレ行きたいし」

この一見何でもない譲り合いのやりとりの中には、何が何でも勝者の座に君臨したいとする男同士のプライドが内包されており、この空間で敗者に身を窶すことを譲り合っているのだ。そのためには、すこぶる元気であるにも関わらずだるさを訴え、出る気配もない小便の存在をでっちあげトイレに行きたいと虚言を弄することすら厭わない。

 

――やれ、日本人は争いを好まないだとか平和ボケしているとか、根も葉もない流言が蔓延っているがとんでもない。

こうしている今も、カラオケの一室では”譲り合い”が繰り広げられているのだ。

日本と海外の喫煙事情はなぜこうも異なるのか?

 

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「smoking kills」 ”吸うと死にます”とでも訳せばいいのだろうか?僕自身も喫煙者だからか、海外でたばこを買おうとすると、こういった直接的なメッセージに過敏に反応してしまう。国によって異なるのだろうが、ほかにも、たばこのパッケージ上半分に喫煙により傷んだ…というより腐ったといった方が的確だろうか、とにかくグロい画像とともに喫煙に警鐘を鳴らしているものもある。

どうやら海外では、「たばこは有害なもの」という認識が強くなされているようだ

勿論日本においても、その有害性は指摘されており、

「人により程度は異なりますが、ニコチンにより喫煙への依存が生じます」

とパッケージにも警告文が添えられている。…が、上のような警告に比べるとどうもインパクトに欠ける。

これだけ見ると、海外の方が禁煙対策が進んでいるのかな?とも思えるが、実際のところはどうなのだろうか

 

 

 

――つい先日、卒業旅行で香港に行ってきたが、そこで日本との喫煙事情の違いというものをまざまざと感じた。まず驚いたのが、屋内禁煙が徹底されていることだ。大衆食堂チックな料理店は勿論、居酒屋やバーといったところでも吸うことはできず、喫煙するには屋外へ出なければならない。一方、外は基本的に喫煙が許されているらしく、一歩店の外に出れば、愛煙家達が紫煙を燻らせている。道路には至る所に大きな灰皿が設置され、道端には無数の吸い殻が捨てられている。人の往来が激しい雑踏のど真ん中でたばこに火をつける人やたばこをポイ捨てする人も珍しくなく、同じ喫煙者として、路上喫煙のマナーの悪さが目立って見えた。

調べてみると、どうやら香港に限らずアメリカやヨーロッパ諸国といった先進国は殆どが、屋内禁煙を徹底し、屋外では基本的に喫煙を容認している、というスタンスらしい。喫煙に関して先ず路上喫煙禁止を推進してきた日本とは、まさに真逆の喫煙事情だ。

 

 

――では何故、日本と海外とで喫煙事情がこれ程に異なっているのか?

巷では、「日本は屋内でも喫煙が可能であることから、日本の禁煙対策は低レベルだ」と言われている。屋内禁煙が徹底された海外と比較すると、日本は「未だに」屋内で喫煙ができる野蛮な国のように映るのだろう。…が、だからといって日本の禁煙対策が海外に比べ遅れていると決定づけるのは少々短絡的だと思う。

声を大にして言いたいのは、日本と海外で喫煙事情が異なるのは、日本の禁煙対策が遅れているからではなく、日本と海外でたばこに関する認識が異なっているからだ、ということ。

 

 

――上で書いた、たばこの警告文ひとつとっても分かるように、海外においてたばこというものは、「健康に影響を及ぼす有害なもの」という認識が強い。そのため、副流煙を吸う危険性の高い屋内を全面的に禁止し、受動喫煙の危険性の低い屋外での喫煙は認められている。

では日本でたばこはどのように認識されているのか?最近になって、受動喫煙の危険性等も指摘されつつあるが、それよりも、たばこは日本において、「周囲に不快感を与えるもの」という認識が勝っているように思う。路上喫煙に規制が入ったのも、歩きたばこ等の、他者への被害防止といったところが大きく、JTのCMなんかでも、「吸う人も吸わない人も快適な社会に」というメッセージの下、周囲に被害を与えないために歩きたばこの防止や分煙を推進しているような節がある。また、最近iqosが日本で爆発的に広まったのも、火や煙といった「他者に被害を与えるもの」が発生せず、周囲に迷惑をかけずに吸うことが出来るという点が、一つ大きな要因として考えられるだろう。

 

――海外の人たちから見れば、日本は未だに室内での喫煙を取り締まっていない野蛮な国だと思うかもしれないが、日本人である僕から見れば、海外は「屋外は受動喫煙の危険性が低い」という名目を後ろ盾に、やりたい放題路上喫煙している野蛮な国に映るのだ。

 

日本と海外とのこういった喫煙事情の違いは、たばこの規制に際して、有害性が高いという側面を重視したのか、周囲に迷惑をかけるという側面を重視したかの違いであって、どちらが正しいというものではないように思うし、どちらの規制施策が優れているかという断定はできないように思う。

 

 

――そんな中、現在の日本国内では、2020年の東京五輪開催に向けて、公共施設の屋内を全面禁煙にしようとする動きが活発化している。

飲食店の全面禁煙を提言 厚労省、「たばこ白書」を15年ぶり改定
http://www.sankei.com/life/news/160831/lif1608310024-n1.html

 厚生労働省の専門家会合は31日、受動喫煙が肺がんの危険性を確実に高めることなどを盛り込んだ「たばこ白書」の改定案を了承した。白書の改定は15年ぶり。公共施設や飲食店など不特定多数が利用する室内の全面禁煙を提言した。

 

 受動喫煙の危険性よりも周囲への悪影響というのを重視し規制を施してきた日本が、さらに受動喫煙の危険性に対して、公共施設の屋内全面禁煙に乗り出さんとしているのだ。一人の喫煙者として率直に言えば、吸えなくて不便で悲しいというのが正直なところだが、たばこの有害性が科学的に証明されている昨今において、受動喫煙のリスクが高い屋内での喫煙を防止するのは妥当であるように思う。各業界からの反発など、障壁は大きいだろうが、何とか実現してほしい。

――世界各国で行われている「禁煙」というチャレンジで、日本は金メダルを獲得出来るのか、果たしてーー

 

 

 

 

 

 

 

海外のメシが口に合わなかった話

 

 

 

 

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大学最後の春期休暇ということで、香港,マカオに卒業旅行へ行ってきた。僕にとっては初の海外旅行だったのだが、そこで否応なしに痛感したのは、日本と海外の文化の違いであり、日本で暮らすことの快適さを認識した旅となった。

 

 

 

ーー煩雑な飛行機搭乗や出入国手続きを何とか済ませ、空港から香港の街へ出たものの、「海外へ来た!」という実感は殆ど湧かなかった。というのも、道路に目を向ければ、走る車は大体が日本車だったり、セブンイレブンサークルKといったお馴染みのコンビニが至る所に存在したりと、最早殆ど東京と相違ない街の景色が、そこに広がっていたからだ。これには非常に安心感を覚えたとともに、妙に日本という国が誇らしくなった。今まで僕はーーやれ、愛国心だとか郷土愛だとか、そういったパトリティオリズムな考えは微塵も抱いたことがなかったが、海外に居るからだろうか、日本のものが国境を越え世界で定着している様を見ると、そういった思いが湧き出てきたのだ。

 

 

ーーとはいえ、やはり街を散策してみると、日本との違いというものをまざまざと感じた。最たるもので言えば、食事に関してだ。海外で現地食をいただき、文化の違いを舌で感じるというのは海外旅行の醍醐味の一つだが、結論から言うと俺の口には合わなかった。なんだかよく分からない調味料がふんだんに使われてるのであろう現地料理の数々は、食べられないことこそなかったものの、「いつも食べてるものとは違う」という違和感が勝ってしまい、イマイチ美味しいと思えなかった。...というか、ハッキリ言うと不味かった。勿論現地料理を貶しているわけじゃない、あくまで、「食べ慣れている日本食と比較して」という話だ。

 

 

ーーそんなわけで、「せっかく香港に来たのだから香港の料理を食べる!」というノルマを達成した後は、早々にして、「日本食に近い料理」を探し求める方向にシフトした。そんな最中、吉野家の文字を見かけて吸い込まれるようにして入店するのは、至極当然の流れであろう。さて、これだけ聞くと、やれ「海外迄来て吉野家かよwww」とか「何しに海外行ったの?www」といった嘲りの声が方々から聞こえてきそうなものだが、これに関してはもうしょうがない、食べ慣れない現地食を無理矢理胃袋に詰め込む作業は、精神的にも相当なストレスであり、場合によっては命に関わりかねない...生き永らえるためには仕方がないことなのだ。ーそういうことにしておいて欲しい。

 

 そんな思いで吉野家に入店し、日本のメニューにはない「チーズ牛丼」なるものを食べてみたのだが、どうにもおかしい...

なぜだ、なぜ吉野家でさえも不味いのだ...? 確かに肉と玉ねぎとご飯は美味しかった。日本で食べ慣れた牛丼と目立った違いはない。...が、問題はチーズだ。強烈な香りは鼻を強く刺激し、口に含むとその香り,風味が口いっぱいに広がる。この味に関しては、食事をしながら閲覧している方もいらっしゃると思うので控えめに表現するが、ゲロの味がした。結局チーズは最後まで食べることができず、チーズ牛丼を頼んでチーズがかかった部分を残すという何とも奇っ怪なことをしてしまった。...なぜ一番シンプルな牛丼を頼まなかったのか...はぁ。

 

 

ーーそういうわけで、もはや現地料理に抱いていた憧憬は消え失せ、「旅先の料理屋で美味しいものを食べる」ことは諦めた。おそらく旅先で口にした食べ物の中で、最も美味しかったのは日清のカップヌードルだろう。... 結局のところ食べ慣れたものが一番なのだ。

 

ーーやはり、普段口にしない異国の料理を何不自由なく受け容れることは、文化や環境が異なる以上は土台無理な話なのだ。これは食事に限ったことではないが、もし運ばれてきた料理が、対峙した文化が、あるいは現地人の言動や性格が、自分と合わなかったとして、それを「良い刺激」として咀嚼し楽しむのか、それとも「日本食の方が美味しい」というような、日本との比較をしてしまうのか、そこが海外での生活を楽しめるかどうかの分岐点のように思う。残念ながら俺は後者のようで、海外に来て色々なものに触れるたび、とかく日本との比較ばかりしていたように思う。

 

ーーさらに言うなら、日本の生活水準の高さ、快適さが仇となって、海外での生活を素直に楽しめなくしているようにも思う。例えば食ひとつとってみても、日本の食べ物が海外スーパーの目のつきやすい所に大量に陳列されてるさまであったり、寿司やラーメンといった日本食が国境を越え、海外に於いても一つの食文化として溶け込んでいるさまを見るに、日本の食というのは世界中で愛されているといっても言い過ぎではないだろう。他にも接客サービス、言わばおもてなし文化というのも、他に類を見ないほどの丁寧さである...他にもあげていけばそれこそ枚挙に暇が無いくらいに、日本での生活というのは他と比べて恵まれている。そんな日本で長い間暮らしていればいるほど、海外へ行くと「日本にあって旅先にはないもの」を明確に意識してしまい、上にも書いたような、「日本だったら...」という比較思考に繋がり易いのかもしれない。

 

 

 

ーー勿論、海外にも素敵な文化や価値観があり、貴重な体験が出来る機会というのはそこかしこに転がっているだろう。ただ、そういったものは、「もし日本だったら...」という比較ばかりしていては取り零しがちになってしまう。

「郷に入れば郷に従え」という言葉があるように、文化も価値観も何もかもが違う海外において、それらを受容し楽しむためには、「もし日本だったら....」という比較思考の色眼鏡を外し、真っ新な気持ちで違いを違いとして受け容れることが重要なんだろう きっと。