河童の裏庭

雑多な感じ

東名高速夫婦死亡事故に思うこと。...やっぱりDQNとは関わりたくない

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嘉久さんは手前のパーキングエリアで、ワゴン車の進路をふさぐように駐車していた石橋容疑者を注意したという。

 怒った石橋容疑者が高速道路上を約1キロにわたって追跡。後ろから接近した上、前に割り込んで減速し、一家の車を追い越し車線上に停止させた。車から降りて嘉久さんの胸ぐらをつかむなどした直後に、後ろから来たトラックがワゴン車に突っ込んだという。

 

最近頻繁に流れるこのニュース。

大変に胸糞悪い気分にさせられたニュースだ。

正しいことをしたはずの人間が悲しい目に遭う、そういった類のものを見るたびに、やり場のない憤りと共に、ただただやるせない気持ちになってしまう。

 

 

 

容疑者男性のような所謂DQN、こういう野蛮な人種が、身の回りにいることがもう恐ろしい。

そして、

「ああいうDQNには近づいてはいけない」

「触らぬ神に祟り無し」

と、自らに言い聞かせる。

 

 

――仮に遭遇したとして。

DQNが迷惑駐車をしていたとして。

見て見ぬふりをして、それで終わりだ。チラッと横目に見て不快感を蓄えつつ、次の瞬間にはもう、通り過ぎた過去の光景として扱い忘れ去る。

関わってもろくなことがないんだから。

危険を冒してまでああいう人種を更生させる義理は無いし、正義の名の下に鉄槌を下す義務もない。

奴らが自身の生活領域に踏み込んでこなければそれでいい。

 

――きっとこれが、処世の術としては最適解なんだろう。

最適解だからこそ、多数の人が見て見ぬ振りを決め込んでしまい、結果として、ああいう人種のモラルに欠けた振る舞いが世に蔓延ってしまうんだろうが。

 

 

 

 

「何をしでかすか分からない」そういう危険性を孕んだDQNに、面と向かって注意をする勇気は、僕にはない。

それでいて、そういうDQNのモラルに欠けた反社会的振る舞いに、僕の穏和な日常生活が勾引かされて欲しくないと願ってもいる。

 

DQNと関わらないのが処世術として最適解だからという理由で、見て見ぬ振りして過ごしておいて、その最適解が結果としてDQNを世に跋扈させることになると分かっていてなお、奴らが蔓延る日常は嫌だとのたまう。

 

ーー狡いな、と思う。

 

 

僕の日常に潜む反社会的な危険因子、それが、僕と関わりの無い何処かで、僕と関わりの無い誰かによって取り除かれ、そうした振る舞いに明け暮れるDQNに正義の鉄槌が下ることを望んでいるんだ。

 

ーー全くもって狡い考えだ。

 

 

 

中には、今回の被害者のように、危険を顧みずDQNに面と向かって注意をする、彼らのモラルに欠けた振る舞いに喝を入れる、そういうことのできる強い人間も、少数ながらいるんだろう。その人たちに重荷を押し付けてしまっているような、罪悪感にも近い感覚。

 

 

 

 

ーーなんだろう。

冒頭のニュースを見る度に感じるやるせなさは、こういう感覚に起因するものなのかもしれない。

正しいことをした筈の人間に災禍が降り注ぐ、そんな世の中への絶望と、自身は神風主義を貫きながら、被害者のような強い人間に寄りかかっていた罪悪感がごっちゃになって突き付けられ、どうにもやるせない気持ちに落ち込んでしまうんだろう。

面倒くさがりな不潔

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歯磨きが億劫だ。所要時間で言えばたかだか1分や2分そこらの単純な作業だが、その単純な作業がどうにもめんどくさく感じて、やらないまま寝てしまうことが多々ある。

ーー言うまでもなく、僕の吐息は少し臭い。

 

 

同様の理由で、洗濯が億劫だ。洗濯物を搔き集める、洗濯槽に洗剤をぶち込む、洗濯物を干す、乾いた洗濯物を畳む...想像しただけであまりのハードワークっぷりに吐き気すら催す。
よっぽど汗をかいてなければ一度着た服はそのまま着るし、バスタオルだって身体の水気を拭き取るだけなら、2〜3日同じものを使ったところでなんてことない。

ーー無論、僕の服は少し臭い。

 

 

 

 

「汚い!」
「不潔!」
...なんとでも言ってくれ。僕は清潔感に欠けた人間なんだ。

 

 


凄い気になるんだけど、本当に皆こんなめんどくさい作業をきちんとこなしてるのか。朝晩しっかり歯磨きをし、洗濯物が溜まったら洗濯をして...。
その上でアレだ、ムダ毛処理とか洗顔とか、やらなくてもそんなに影響が出ないであろうプラスα的な領域まで、ちゃちゃっとこなしてるというのか...?

 

そんな規則正しい清潔な生活を、自身を律して行なっているというのか。


あり得ない...全然アリエールじゃない。まったくもってあり得ない。

 

 


ーー勿論僕だって知っている。
歯を磨けば口元爽やかになることも、洗濯したての服に袖を通した時の引き締まるあの感じも、柔軟剤でふわふわになったバスタオルで身体を包む心地よさも、全部知ってる。

全部知った上でなお、めんどくさいのだ。

 

 

 


世間一般では僕みたいな人間は少数派で、不潔という烙印を押されるんだろうが、思うに、こういう不潔な生活を送る人ってもっと沢山いるよね。というかいてほしい。いてくれないと嫌だ。

 

本当にこれを見てるあなたは、平日朝のバタバタした時間にきちんと歯を磨いているというのか。

仕事でクタクタになって帰ってきても、貴重な余暇時間を削いでまで、洗濯とかいうハードワークをこなしているというのか。

 

 

高潔...高潔すぎる。もっとダラけたほうがいいんじゃないか。
そんな清潔な生活を皆が送ってるから、それが最早スタンダードになってるんだ。頼むからもうすこし清潔感とやらのハードルを下げてくれ。

 

 

世に跋扈する「清潔感」とかいう観念に乗り遅れた、僕みたいな人間はどうすればいいんだ。

 

ーーいや分かってる。ちゃんと歯を磨いて、きちんと洗濯すればいいんだろうけど、分かってるんだけど...ねぇ?

短い靴下を履く最近のJKに思うこと

 

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――最近のJKというのは、短めの靴下を履いて素足を多めに露出させる、というのが

"今風"なんだそうだ。

どうやら短い靴下の方が素足が見える面積が増えるため、脚が細く、長く見えるとか、ガーリーでお洒落な雰囲気を醸し出すことがてきるとか色々理由があるようで、いかに自分を可愛く見せるか?ということにエネルギーを注いでいる彼女らのその健気さと計算高さにはいつも感心させられる。


 

やれーーJKの足元というのは時代の経過とともに、それはもうめまぐるしく変化してきた。
ルーズソックスが爆発的に広がったと思えば、いつの間にかハイソックスが流行りだし、ルーズソックスは過去の産物と化した。そうかと認識していたのも束の間、今度はハイソックスの上からルーズソックスを履くというスタイルが流行りだしたりなんだで、今では短めの靴下が主流になっているという...

 

何がすごいって、ルーズソックスもハイソックスも短めの靴下もすべて、「脚を細く見せる」効果があると期待してのものだという。
時代は違えど目指すべき方向性が全くブレていない彼女らの芯の強さに、敬意を払わずにはいられない。


 

にしても、こういうファッションの流行り廃りって、別にJKに限らずどこが火付け役になって広まっていくのか全く想像もつかない。
流行り出して皆が履きだすのか、それとも皆が履きだしたから流行りが生まれるのか...

マジヤバいから皆履くのか、皆が履くからマジヤバいのか...

タマゴが先か鶏が先か?このジレンマの謎は解けそうにない。

 

――とにかく、短い靴下が"今風"である以上、流行りを気にする彼女らはそれに乗らずにはいられない、流行りに乗れなければJKではなくなってしまうのだ。



が、この短い靴下には侃侃諤諤な意見があるようで、脚が細く見えて可愛いという意見もあれば、ハイソックスの方が清楚っぽくて良い等という意見もあり、今日もまたどこかで、変態達による論争が繰り広げられている。



 

さて、じゃあ僕はどうなのかというと、短い靴下、アリだと思う。
これは別に、短い靴下を履くJKの脚のフォルムが~~とか、ガーリーっぽい雰囲気が~~とか、そういう個人的な好き嫌い、性癖に基づく変態的思考では無い。

...本当だぞ 僕を変な目で見るな。


――僕は恐らく、流行りに乗ったファッションに身を包むjkが好きなのだ。
ルーズソックスを履いているか、短い靴下を履いているか、そこは重要では無い。
今を燦めくJK流行りのファッションを身につけていることに意味があり、魅力的なのだ。


つい最近まで、JKといえばハイソックスという認識があったために、学園モノのドラマやコスプレなんかでは、ハイソックスを履いているパターンが多い。
ハイソックスは最早一世代前の過去のファッションになりつつあるのに、だ。

世間がそんな前時代的なJK観に囚われている中で、流行りの最先端たる短い靴下のJKを街中なんかで見ると、そのJKが芸能人やコスプレイヤーが演じている前時代的な贋JKではなく、今をときめくキャピキャピのJKそのものだということを、痛烈に感じさせる。


そこにJKの可愛さが宿るのだ。


どんなにルーズソックスに可愛さを感じようと、ハイソックスに清楚っぽさを見出そうと、それらは既に過ぎ去った過去の流行でしかない。そのファッションをどれほど個人的に好いていたとしても、過ぎ去ったファッションとしてどこか古臭いイメージを伴って見てしまう。

僕は今を燦めくJKが好きなのであり、今流行っている短い靴下はそれを感じさせるアイテムでしかない。

 

そのため、もし仮に、来年あたりにJKの流行りのファッションとして、草鞋足袋なんてトンデモない流行りが生まれたとしよう。

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「今年の足元は江戸時代風で決まり!」なんてトンデモな女性雑誌のメッセージに踊らされ、こぞって草鞋足袋を履くJKに対しても、恐らく僕は、そのJK達に可愛さを感じてしまうだろう。

 

 

流行りに乗るJKにこそ価値があるのだから。




 

 

 

――ただどうか、草鞋足袋だけは流行らないでほしいと願う。






「リア充」という概念が怖い

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インターネットスラングとしてうまれたリア充という言葉、この言葉がネットの世界を飛び出して、学生を始めとする若い人達の共通認識として跋扈していることに、雑然とした恐怖を感じるのは僕だけか。

 


この「リア充」という言葉、使う場面や使う人の認識により意味は若干異なれど 、

実際の現実の生活(リアル生活)が充実している人間のこと。
恋人や友人付き合いに恵まれる
サークル活動や飲み会へ参加する

(はてなキーワードより)

と、まぁこんなような定義が一般化しているようで、実際僕の周りで耳にする「リア充」の意味も、大体こんな感じだ。


2ちゃんねるから生まれたこのインターネットスラングは、言葉のシンプルさとか汎用性の高さもあってか、いつの間にか爆発的に普及し、今や完全に若者言葉として定着している。

事実、2011年には女子中高生ケータイ流行語大賞の金賞に抜擢されている。...金賞ですよ、金賞。
一体この賞がどんなものなのかいまいちピンとこないが、渋谷かどっかで「まじヤベェ」とか息巻いてる女子中高生にまで「リア充」という言葉が浸透しきっていることを意味するのだろう、きっと。

 

そんなこんなで「リア充」が定着していったわけだが、最近はもう、このリア充というワードが、リアルが充実している様子を表す"言葉"を通り越して、その人の人生の充実具合を測る"基準"として、概念化してしまっているように思えて仕方がない。そのことに一抹の怖さを感じる。

 

高校生や大学生、社会に出る前の段階にある彼ら学生にとって、友達の多さとか、恋人の有無とか、飲み会の多さなんかが、充実具合を図る基準として、一種のステータスのように語られるのはまぁ、至極当然のことだと思う。これ自体はきっと、「リア充」という言葉が世に生み出される前にも、何となく存在はしていたんだろう。


ーーが、「リア充」という言葉が一般化した今や、友達の多さとか恋人の有無だとかの基準が明確化し、その研ぎ澄まされた基準によって、僕たちの人生の充実具合を測られてしまっているような気がしてならない。
リア充の定義や基準が若者の中には明確にインプットされ、それらを満足に満たせないと、周囲から「アイツはリア充ではない」という烙印を押されてしまう。


この不名誉な烙印が押されることを恐れるあまり、僕は実生活で自分を殺し、「リア充」であることを演じるというケースがしばしばある。
酒の席で普段以上に明るく振る舞ってみたり、チャラめなサークルに顔を出して人脈を築こうとしたり...そういった仮面の振る舞いを、どこか背伸びして行っている節がある。
本心からそうすることを望んでいたわけではないし、その振る舞いが自分のありのままの姿かというと断じてそうではない。
僕の頭の中のどこかには、リア充として振舞わなければ」という強迫観念が存在し、リア充と認識してほしい」という自尊心がべったりとこびりついていた。


そんなだから僕は、飲み会だとかバーベキューだとか、そういう所謂リア充的なイベントに参加すると、途端に安堵感に包まれる。
勿論、気心知れた友人や先輩後輩と飲んだりするのは実際楽しい時間で、有意義なものだと思う。が、そういった感情より先に、リア充的な振る舞いが出来ている」ということに、底知れぬ安心を覚えてしまう。


ーーもうなんだか、僕の行住坐臥全てが、リア充的かどうか」でカテゴライズされてるような気さえしてきた。


勿論、自分のリアルが充実しているかどうかなんて、他の誰でもない僕によって測られるべきだ。
仮に僕のリアルがリア充の定義から外れるようなものだとしても、僕が人生を楽しいと思えれば、その主観を大切に受容してあげさえすればそれでいい。
...筈なのだが、どうしても周囲からリア充ではない」という烙印を押し当てられることに抵抗がある。そんなのを物ともせずに堂々としていられたらそれが一番なんだろうが、どうにも僕はそこまで強い人間じゃないらしい。

 

 

ーーだから僕はリア充という概念が怖い。
現実世界の充実具合なんていう、本来主観的な基準を、「リア充」という他人が作った基準に落とし込んで考えてしまう歪さが怖いし、その他人が作った基準が一般化し、常にその物差しで自身が測定されているかと思うとゾクゾクする。

 

リア充という概念が一般化した今、周囲の人から「アイツはリア充ではない」と思われないよう、怯えながら過ごしている。

田舎で語られる、雪に関する言い伝えの話

 

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僕の地元には「山に3回雪が積もると、雪が人里に降りてくる」という言い伝えがある。
自然豊かな田舎に根付くこの言い伝えは、言葉通り、遠く聳える山に3度雪が積もれば、里にも雪が降り始める...という意味だ。僕はこの伝聞が何故だか異様に好きで、冬になるたびこの言葉が頭をよぎる。

 

 

 

ーー勿論、この言い伝えには何の科学的根拠もない。山に1度だけ雪が積もったと思ったら、次の日には町にも雪がしんしんと降っている...なんてこともザラで、冷静に観測してみるとてんで当てにならない言い伝えだ。テレビの天気予報でも見た方が、よっぽど明確に降雪の有無を知ることができるだろう。

 

にも関わらず、僕の町では「山に3回雪が降ると、人里にも雪が降る」という言い伝えが、まことしやかに語られている。両親や祖父母も、学校の先生も、近所のおっちゃんおばちゃんも、大人も子供もおねーさんも、冬になると皆こぞってこの言い伝えを口にし、遠く聳える山々を観測し始める。
「あの山の白いのは1回目やろか」
「こないだも積もってたから2回目やないか?」
「そいじゃそろそろかねえ?」
といった具合で積雪へのカウントダウンが始まり、天気予報など全く意に介さず、町全体がこの言い伝えを持ち上げ、嘯きだすのだ。


無論僕も例外ではなく、この言い伝えを盲信していた1人だ。小さい頃、寒い冬の朝、雪が降るのを待ち遠しく思いながら、毎朝遠くの山々を見上げていたのが懐かしい。

 

ーー雪の中で遊ぶことは、子どもの頃の僕には凄く刺激的なことだった。そりに雪合戦に雪山探検、あらゆる遊びがいつもとは違う、非日常に彩られたもので、雪が降るたびにワクワクし、心が躍った。

そんな雪への憧憬を、白くなりつつある山を見上げることで、町全体で共有していた。「山に3回雪が降ると、人里にも雪が降りてくる」という根も葉もない言い伝えを信じて、「そろそろ里にも雪が降るんじゃないか」と町全体がそわそわしだす、あの独特な空気感が堪らなく好きだった。

 

 

 

ーー天気予報も何もない時代、山の状態から天候を読み取り、生活に役立てていた先人達の知恵が言い伝えとなって、正確無比な天気予報が存在する今尚、連綿と語り継がれ、定着しているのだ。
「雪がいつ降るかなんて天気予報見たらすぐ分かるじゃん」などという無粋な突っ込みはどうか控えてもらいたい。

まだかまだかと雪に想いを馳せながら、毎朝部屋の窓から山を見上げるあのワクワク感は、どうにも言葉では上手く書き表せないが、僕の中では確かに、冬の風物詩として今なお息づいているのだ。

ランニングを趣味にするということ

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「ランニングが趣味です」
この言葉を聞いただけで、あなたは何となくその人のことを、健康的で爽やかな人であると思うだろう。あまつさえ、スポーツ万能だとか、細マッチョだとか、イケメンというイメージすら抱くかもしれない。



 

――さて、僕の趣味はランニングである。

どうだ、これを読んでいるあなたは、まだ顔も見たことすらない僕のことを、健康的でスポーツ万能で細マッチョな福士蒼汰だと認識するだろう。まぁ大同小異あるが、その通りである。
細かい違いをあげていくと、僕は毎日のように夜食を貪りタバコを吸い、およそ健康的とは言い難い毎日を送っている。スポーツというスポーツも特に得意でもなく、中学時代のサッカー部ではベンチの座に甘んじていたし、勿論福士蒼汰ではない...が、整形すればかろうじて福士蒼汰っぽい顔にはなれるだろう。...まぁこんなことは瑣末なことで、いちいち細かい違いを探すなんて野暮ったい真似はやめてほしい。




――しかし、僕はランニングが趣味と言い張っているくせに、そのランニングを殆どしていない。稀に、何だかよくわからないフレッシュパワーで満ち溢れた時は意を決して外を走るが、大体それは年に一度あるかないか、一年間一度もランニングに繰り出さないこともザラにある。

これだけ読むと「は?」となること受け合いだろう。ややもすると、「ふざけるな!」と激昂する人もいるかもしれない。それでも僕の趣味はランニングであり、「趣味はランニングです」と言い張ることをやめない。やめたくない。僕の趣味はランニングであってほしいし、「趣味はランニング」という言葉のフィルターを通して、健康的でスポーツ万能な福士蒼汰であると人々に認識されたい

 

 

――やれ、ランニングの効能として、激しい有酸素運動により血流がよくなり新陳代謝を高めるだとか、忍耐力が身に付き身体的にも精神的にも疲れにくくなるだとか色々言われているが、そんなこたぁどうでもいい。僕は人々から、健康的でスポーツ万能な福士蒼汰と思われたいからランニングを趣味にしているのであって、そのほかの事、新陳代謝とか忍耐力とか疲れにくくなるだとか、至極どうでもいい。
とどのつまり、自分をカッコよく見せたいという承認欲求それのみに基づいてランニングを趣味にしており、僕は福士蒼汰になるために走っているのだ。


そのために僕は普段からランニングシューズを好んで履く。iPhoneのミュージックには「ランニング用①」「ランニング用②」などといったいつ使うかも分からない、アップテンポな曲達で構成されたプレイリストが居座っている。大して走ってもいないのにランニング好きであることを装い、「暇さえあれば走ってますが、それが何か?」的なスタンスをキメながら、周囲にそれとなくアピールしている。

その上、趣味はランニングと言い張り自分自身に暗示をかけることで、健康的な生活を送っていると自らを騙し続けている。連日夜食を貪りタバコを吹かす不健康極まりない毎日を送ることへの背徳感を、ランニングという健康的なイメージを持ってして帳消しにし、不健康な毎日を正当化している。

 

ランニングを趣味にしていることで、僕は健康的でスポーツ万能な福士蒼汰になれるし、不健康極まりないであろう連日連夜の夜食も安心して楽しむことができるのだ。年に一度くらいしか走っていない癖に、ランニングの甘い汁を吸い続けている僕は、もうランニング無くして生きてはいけない体になってしまった。

 

だからこれからも、年に一度しか走らなくとも「趣味はランニング」と周囲に喧伝して止まないだろうし、そうすることで、ランニングをこよなく愛している自分というものを醸成し続けるのだろう、きっと。

カラオケの「最初の一曲」を巡って

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友人とカラオケに行き、最初の一曲をどちらが歌うか?という所で、目に見えない壮絶な駆け引きがなされているのはご存じだろうか。

「先歌っていいよ」

「いや、だりぃからいいわ」

「いやいや、俺トイレ行きたいし」

「いやいやいや、俺もトイレ行きたいし」

こんなような具合で、お互い最初の1曲を譲り合う

さっきまで「カラオケ行こうぜ」と軽々しく騒いでいたとは思えない、何とも言えぬ緊張感が空間一面を支配しているのだ。

 

日本人は謙虚で礼を重んじ、相手を尊重し譲り合いの心を持つ…ともすれば日本人の国民性をこんな言葉で着飾り、褒め称えてくれる外国人がいるが、あれは嘘だ。

あの譲り合いは謙虚さからくるものではないことを僕は知っている。

あれはお互いの歌唱力…もとい、戦闘力を測ろうとしての「譲り合い」なのだ。

 

 

――まったく、人というのは、恥をかくことを極度に嫌う。それが気心知れた友人の前であればなおのことだ。カラオケは「皆で歌って楽しむもの」という認識が一般的だが、あんなものは嘘っぱちだ。虚飾塗れの妄言と言っていい。実際は、血で血を洗う闘争が繰り広げられるコロシアムとでも言ったほうがよっぽど的確だ。

 

―そう、カラオケには確かに勝敗が存在する。皆も感じたことがある筈だ。

自分よりべらぼうに歌唱力のある友人と二人でカラオケに行った際、そこに「皆で歌って楽しむ」なんて生やさしい感情は生まれない。痛感するはただただ己の無力感、それだけだ。

カラオケで敗者となった者は、歌うこと以外することのない閉鎖空間において、相手の美声に憤りを感じながら己の無力さを恥じ、いざ自分の番になれば、勝てないと分かりきっている勝負のステージに上らねばならず、相手よりも遥かに程度の低い歌唱力を曝け出さなければならない。何たる苦痛…何たる醜態…もういっそひと思いに殺してくれ。

――まったく、これだけ聞くと、何故金を払ってこんな罰ゲームに参加しなきゃならんのだと思うが、それを補って余りあるほどの美酒が勝者には用意され、それによってカラオケというコンテンツは成り立っているのだ。

カラオケにおける勝者―つまり相手よりも歌唱力が優れていた場合はどうなるか?鎧袖一触で相手を嬲り倒す快感に何時間も浸ることが許されるのである。ドリンクバーで注いだコーラはビンテージ物の赤ワインに早変わりし、安っぽい部屋の内装は絢爛豪華な宮殿の一室へと変貌を遂げる。高々と足を組み、敗者を見下しながら快感に浸り続けることを許される、極楽浄土の空間を堪能できるのだ。

 

 

「暇だしカラオケ行こうぜ」こんな飄々とした軽い言葉で誘ってこそいるものの、その裏では自分が勝者の座に君臨出来るのか、それとも敗者に身を窶してしまうのか、戦々恐々とした心理がフルに働いているのだ。

…それ故最初の1曲というのは敬遠されがちなのだ。武士どうしが初めて剣を交える瞬間なのだから。

この立ち合い、先手は自身の最大の力を出し切り全力で歌う選択肢しかないのであるが、後手に回れば応用が効く。先に歌った相手の戦闘力にひれ伏すしかないと感じれば、ネタに走る、仮病を装う、或いは静かに部屋を出てそのまま自宅に帰ることすら選択肢の一つに成り得る。正に「柔よく剛を制す」である。

 

 

「先歌っていいよ」

「いや、だりぃからいいわ」

「いやいや、俺トイレ行きたいし」

「いやいやいや、俺もトイレ行きたいし」

この一見何でもない譲り合いのやりとりの中には、何が何でも勝者の座に君臨したいとする男同士のプライドが内包されており、この空間で敗者に身を窶すことを譲り合っているのだ。そのためには、すこぶる元気であるにも関わらずだるさを訴え、出る気配もない小便の存在をでっちあげトイレに行きたいと虚言を弄することすら厭わない。

 

――やれ、日本人は争いを好まないだとか平和ボケしているとか、根も葉もない流言が蔓延っているがとんでもない。

こうしている今も、カラオケの一室では”譲り合い”が繰り広げられているのだ。