河童の裏庭

雑多な感じ

町田総合高校体罰問題に思う”バランス”の怖さ

www.sankei.com東京都町田市の都立町田総合高校で、生活指導担当の50代の男性教諭が、高校1年の男子生徒(16)の顔を殴るなどの体罰を加えていたことが18日、都教育委員会への取材で分かった。暴行の場面を撮影したとみられる動画が無料動画サイト「ユーチューブ」に投稿され会員制交流サイト「ツイッター」で拡散。生徒が教諭に「ツイッターで炎上させるぞ」「小さい脳みそでよく考えろよ」などの暴言を浴びせた後、教諭が暴行する様子が収められていた。都教委は処分を検討している。

 

生意気なクソガキだと憤慨せずにはいられないこのニュース。

皆さんもきっとそうだろう。

 

 

 

ーーこういった事件が世間に浮き上がる度、体罰の是非に関する議論が、それはもうあちらこちらで頻発する。

 

この種の議論を、バランスの取れた折衷論で終わらせようとする風潮が、嫌いだ。

 

 

 

 


教師による体罰の禁止は、学校教育法に定める所によるもので、今日では当たり前のものとして、大人から子供まで、皆が共通認識として持っている。


そんな昨今において、こうした事例ーー体罰の禁止というルールを逆手に取ったような悪質な事例が浮き上がる度、体罰は本当に禁ずるべきか?といった議論が侃々と行われる。

 

 

こういったジャッジの難しい体罰問題はいつも、「如何なる理由があっても体罰はいけない」という考えと、「ルールを逆手に取った生徒が悪い!体罰も止むなし」とする考えとが激突して、世間を騒がせる。メディアの報道と比例するように世間の議論が活発化し、「じゃあ結局ベストな落とし所って何処なのよ」っていう所で、「勿論体罰は駄目だが、この生徒の挑発行為も悪質」とした上で、体罰に至ることなく生徒を指導するべきだった」といった理想論を持って纏めあげられてしまい、収束していく。


その是非について激しい議論がなされ、そこから現れる折衷案めいた理想論で、事件も議論も沈静化し、色褪せていくのだ。


客観視するなら建設的とも思えるが、果たして本当にそうなのか。

ーーもういい加減にこの流れ、何とかならないものか。

 

 

 

 

同じようなことは少年法にも言える。

川崎市中1男子生徒殺害事件のような、少年による悪質極まりない事件が起これば、国民感情は不良少年を何とか断罪せんとして、少年法不要論を声高に叫ぶ。

それに対して、弁護士や教育評論家といった立場の人間が、感情論を抜きに既存の法制度や個別事情を勘案して少年法は必要だと述べる。


不要論と必要論とが出揃い、両者の意見が世間に広く認知されたタイミングで、結局バランスが肝要だとか、都度事情を斟酌して慎重に判断すべきといった、なんとも判然としない有耶無耶論が間から湧き出てきて、それがベストと言わんばかりに、議論を収束へと導いていき、気づけばもう、議論もニュースも過去のものとして扱われる。

 

 

 

 

話が少し逸れたが、体罰問題も少年法適用事件も、「どちらの事情も勘案した上でバランスが求められる」といった落とし所を以って収束した案件は枚挙に暇がないが、どうもそこから一向に前進していない感がないだろうか。

 


今回の町田総合高校体罰問題に関しても、「体罰は禁止されているが教師が生徒に暴力を振るった」という客観的な規則違反の側面と、「生徒が体罰の禁止を逆手に教師を嵌めた」という生徒側の悪質さを併せ持つ、それこそ教師と生徒の「どちらの事情も勘案した上でバランスが求められる」案件であり、バランスを考えた上で、教師に責があるのか、生徒が悪いのか、はたまた両方悪いとするのか。

両方だとして、それはどういった配分で責を問われるのか?

双方の事情を鑑みた上で、これらをジャッジすべき案件である筈だ。

 

 

「どちらの事情も勘案した上でバランスが求められる」

そんな案件が世間に顔を出しては、やれ暴力は絶対に駄目だの、この件は生徒側に明確な悪意があるだのと騒ぎ立て、今回に関しても、結局"バランス"という言葉がどこからか浮き上がり、その言葉の耳障りの良さからくる妙な説得感だけを残して、世間から忘れ去られる気しかしない。

 

 

 

この体罰問題について、学校側の意見は今回も、「如何なる理由があっても体罰は駄目」という通り一遍なものだが、生徒サイドにも明確な悪意があり、世間もこの生徒を糾弾し、教師側の事情を汲む方向に大きく傾いている。


ーーここでまた"バランス"という言葉で終わらせてしまっていいのか。

 

 

 

 

 

今回の件に際して、刑事罰の観点で述べるなら、教師の振るった暴行が、教育的見地における生徒への懲戒行為の枠内に収まる行為なのか、はたまた私憤による暴力になるのかが、法が禁止する体罰に該当するか否かの分岐点であり、学校側の処分の根拠にもあたるところだ。


当然、そのジャッジには感情論は介在してはいけない。
そうした部分で、学校側は「如何なる理由があっても体罰は駄目」と、教師に責があるとするジャッジを下した。

勿論、こうした判断は粛々と事実関係に基づいて判断されるべきではあるが、これ程までに膨れ上がった、生徒を非難する国民感情を、今回の体罰問題に惹起され浮き上がった体罰の絶対禁止という一元的ルールの脆さを、しっかり勘案して判断する段階に来ているのではないか。


規範を遵守し、その規範から逸脱した教師に責があるとする学校側の考えは正しいとは思うが、今回のような一概にどちらだけが悪いとは言えない判断に難しい案件において、学校側の見解として「両者に責がある」とするような、一石を投じることは出来ないのだろうか。

 そういったジャッジに踏み切らせるためにも、「悪質な生徒にも然るべき措置を与えるべき」という、肥大化した国民感情は不可欠だ。

 

 

 

 


教師が悪いか生徒が悪いか、意見を発信する人間はそれをしっかり見定めて考えを持つことは大前提で、その結果浮き上がる大多数の結論が、「生徒にこそ責がある」という物なら、その大きな声は少数の理想論や折衷案を以って掻き消されるべきではないし、そのような形で収束して欲しくはない。 

  

 外野である僕らはただ、その是非を論じることしかできないが、そこから導かれる結論が、いつもの如く"バランス"という言葉で有耶無耶にされないことを祈るばかりだ。

 


ーー願わくば今回の体罰問題が、通り一遍で終わるこの種の議論を帰結させるものになればいいと、そう思わずには居られない。

遺伝子操作やクローン人間というワードに内包されたロマンについて話したい

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遺伝子操作とか、クローン人間とか、そんな近未来的なワードを出されると、大変ゾクゾクさせられる。

 

こんなワードを見聞きすると、一瞬にして近未来的な、SFチックな世界観が堰を切ったかのように押し寄せてくる。科学だか医療だか知らないが、人間が産み出した技術を以って、人間という種そのものを改造してしまう超越的な所に、興奮が止まらない。
・・・というか、改造だとか、人造人間だとかの言葉にロマンを感じない男はいない。

 

 


その一方で、遺伝子操作だとかクローン人間という言葉は、超えてはならない一線...神の領域として神格化され、手を出してはいけない禁忌であるという生物的嫌悪感をも、内包している。

 

近未来的で且つ禁忌の領域。

 

これこそが遺伝子操作やクローン人間といった言葉に対する僕たちの潜在的な感覚だろう。そしてこれが、僕がクローン人間というワードを聞くたびに感じるあの抑えきれないワクワク感に違いない。

 

 

 

 

 

夜中にそんなことを考えていて、抑えきれなくなったこのゾクゾクをどこにぶつけたらいいのかも分からないので、ひたすらここに書きなぐることにします。

 

 

 

 

 

 

 

そもそも遺伝子操作とは・・・?

遺伝子を人工的に操作する技術を指し、特に生物の自然な生育過程では起こらない人為的な型式で行うことを意味している。 (wiikipediaより抜粋)

と、大先生は説明している。

そしてクローンとは、遺伝的な素質が同じ個体群のことを言う。

人為的に遺伝子を操作することで、遺伝的素質が元の人間と全く同じ個体、クローン人間を精製することも可能になるという。

 

 

 

書いているだけでゾクゾクしてくるが、遺伝子操作という技術は一体何を以って禁忌的なのか。

 

 

 

もう少しゾクゾクしてみよう。

 

 

 

 


デザイナーベイビーという言葉がある。
遺伝子操作により、産まれてくる子供の瞳や髪の色、はたまた運動神経や知力といった、容姿,能力,体質を、文字通りデザインしてしまうという遺伝子改良である。

はぁ?と思うかもしれないが、ヒトゲノムの解析という科学の進歩によって、デザイナーベイビーが技術的に可能な時代が、もうすぐそこまで来ている。

 

 

 

ゾクゾクが頭の中で鳴り止まないが、もう少し。

 

 

 

 

ヒトゲノム解析計画というものをご存知だろうか。
ヒトゲノムとは、人が持つ遺伝情報の全体を指す。
そしてヒトゲノム解析計画とは、人間の全DNA配列(30億以上の配列)を解析し、人が持つ全ての遺伝情報ーー例えば、この配列は青い瞳の遺伝を、この配列の場合は癌になりやすい遺伝を...といった具合に、人間のありとあらゆる要素、それが発現するパターンを一つ一つ明らかにしていこうという、ゾクゾクする計画のことだ。

 

 

そして極めつけにゾクゾクしいのは、このヒトゲノム解析計画が、2006年に完了していることだ。

 

 

ヒトゲノム解析計画が完了しているーーつまり、デザイナーベイビー・・・産まれ落ちる子供の容姿を凄まじくイケメンにするだとか、スーパーインテリ知能を持たせるだとか、はたまた筋骨隆々な超絶肉体を持つスーパーマンにすることすら、可能になるかもしれない。

 

 

いやもうホント、笑っちゃうような話だが、こうして紐解いて見ると、...えっマジで?と困惑してしまう。

 

 

 

 

 

 


勿論、こんな人間そのものを根本からひっくり返してしまうような技術は、医学や倫理,哲学,あらゆる方面から否定的な見解が述べられている。
規制についても、遺伝子工学の急激な進歩に、完全に追いついているとは言えないものの、クローン規制法や遺伝子組換え規制法といった法律や、遺伝子研究における政府のガイドライン等で禁止されている。

 

 

 

まぁなんだ、これらの是非について論じる気は無い。

 

 

 

 

 

 

とにかく、こんな技術が、僕たちのすぐそこに存在するという事実が、最強にゾクゾクなのだ。

 


僕たちが「近未来だ、SFの世界だ」と騒ぎ立て、どこか遠いものとして見ていた神の領域は、実はいつでも手を伸ばせば触れてしまえる距離にまで接近していて、近未来だ近未来だと言い続けているうちに、連呼していた近未来に"今"が追いついてしまったような感覚。

 

遺伝子操作、クローン人間、デザイナーベイビー...そんな神のようなものは技術的に不可能だろうという、思い込みのベールによって担保されてきた禁忌は、実はとっくに消え去っていて、もはやその禁忌を担保するのは、進歩著しい科学技術に待ったをかける法律やガイドラインといった規制でしか無い。

 

 

 

手が届かないから恐ろしいのではなく、伸ばせば届くが伸ばせないように抑え込んでいるという恐ろしさーーそんな現在の遺伝子操作の世界を覗けば覗くほど、嗚呼、今宵もゾクゾクが止まらない。

田舎の子供会と夏休みの読経の話

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子供の頃に当たり前だと思っていたことが、今になって考えてみると異様だと、ハッとすることがある。
 
 
 
小学生の夏休み、ラジオ体操をした後、近所の寺に行き、正信偈ーー浄土真宗のお経を読むことが、 毎朝の日課だった。
 
 
大人になった今も、周囲にこれを話すと結構珍しがられるが、確かに、今になって考えると、事情もよく分からぬまま地域の子らが集まって、皆して同じお経を唱えるその光景は、異様な経験として、頭の片隅にこびりついている。
 
 
 
 
 
子供ーーとりわけ小学生くらいの子らに対する教育観として、田舎ほど村社会というか、子供の育成は地域ぐるみでおこなうべき みたいな考え方があって、学校という大きな組織の他に、子供会という組織の存在が非常に大きな役割を果たしている。
 
 
小学校でも地域交流や縦割りでの交流はあるが、あくまで学校は学習を主とする場。
それとは別なコミュニティで、地域でのコミュニケーションだとか、周辺世帯交流だとかを主とした自治会の一種、「子供会」が存在するのだ。
 
 
 
 
こういう自治会の類は、地域によって活動頻度や内容に差があるが、その性質から、田舎の方ほど活発に活動してるように思う。
 
 
 
 
 
さて、僕の育った地元は、田園風景広がる紛う事なき田舎で、子供会の活動は活発だった。勿論自治会であるため加入に関しては任意なのだが、そんなものは建前で、ほぼほぼ強制だ。
入学と同時に子供会加入の書類が配布され、PTA同様、入ることが当然といった空気感が醸成されていた。
というより、加入しないものなら村八分といっても大袈裟ではないくらい、子供会は地域や学校と密接に関わっていた。
 
 
 
 
この子供会のイベントは様々あり、クリスマス会やひな祭り、新年会といった行事的な集まりは勿論、交通安全教室だとか、夏休みや冬休みの子供会旅行だとか、一年を通して、様々なイベントを地域世帯ぐるみで取り行っていた。
子供の頃は、こうした集まりで友達と交流出来て楽しかった思い出もあるが、これ、どうなんだろう。共働きだったうちの親は大変だったんだろうなぁとか、今になって思う。
 
 
 
 
まぁそんな感じで、地域交流という名目で、子供会には様々な行事があったが、その中でも一際異質に感じたのが、冒頭にも記した、夏休みの毎朝の正信偈読経だ。
朝6時半にラジオ体操をして、7時からは寺で読経 これが夏休みの毎朝の、僕等のルーティーンだった。
このラジオ体操〜読経という一連の流れも、子供会の企画・運営によるものだ。
 
 
 
狭いコミュニティにしか属さない僕らは、それが全国的に見れば珍しいことだなんて知る由もなく、この"当たり前"に取り組んだ。
 
 
 
 
 
宗教だとか寺社だとか、そのへんのことは今でもよく分かっていないが、僕の地域にはそこそこ立派なお寺があった。
その寺は浄土真宗西本願寺の宗派で、恐らく僕の地域では浄土真宗の宗派がメジャーだったんじゃなかろうか。
 
 
 
さて、この夏休みの読経に関しては、もちろんこの寺と子供会とが協力して成り立っているイベントだ。その内実や経緯については詳しくは知らないが、恐らく、子供の健全な成長を地域で支えるだとか、そういった子供会のニュアンスと読経に少なからず親和性を感じ取っての計らいだろう。
 
 
確かに遡れば、江戸時代の頃から、寺院は寺子屋として、地域の子供への学問指南を、一つの役割として担ってきた歴史がある。
そこにルーツを見るなら、何となくではあるが、子供会と寺との親和性に関しては、特段違和感は無い。
 
 
 
 
今になって覚える違和感はそこではない。
その地域の子育て世帯を束ねる、子供会という組織が主導で、特定の宗教・宗派の宗教行事を子供達に強制するということに、違和感を、そして怖さを覚える。
 
 
 
当時の僕等の中に、クリスチャンこそいなかったものの、当然、各家庭ごとに仏教の宗派は様々だった。
ご近所の信宗事情全てを把握しているわけではないが、友達との会話や近所の葬式を見聞きするに、浄土真宗以外に、日蓮宗真言宗の家庭も少なからず存在していた。
 
 
僕の地域は浄土真宗の存在が大きかったものの、全員が、全世帯が、浄土真宗を信仰しているわけではなかったのだ。
 そんな中で、地域に寺が浄土真宗のそこしか無いからといえ、なぜ正信偈読経なんて特定宗派の宗教行事を取り入れたのか、疑問が絶えない。
家の宗派が浄土真宗ではない子らは、幼いながら「家で読む経と違う」という違和感を少なからず抱いただろうし、「何で?」という疑念も生まれたことだろう。
心身共に未熟な小学生にとってのそのモヤモヤした違和感や疑念は、今になって思うに、信教を半ば強制されることへの忌避感だとか嫌悪感の萌芽だったのではなかろうか。
 
 
 
 
そもそも、憲法で保障されている筈の信教の自由は何処へ消えた。何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。」という有難い文言は、何処へ雲隠れしてしまったのか。
 
 
簡単な話だ。
地域や学校と密接に関わる「子供会」への加入は任意なのだ。この読経を拒みたくば、加入を拒めば良いだけの話。
その実、加入を拒めば地域・学校と隔絶された村八分を喰らうという実態があったとしても、形式的に任意を謳う以上、加入不加入の自由、ーー換言すれば、信教の自由は担保されている、というカラクリだ。
 
 
ーー何とも後味の悪い話である。
 
 
 
 
 
子供会は任意だが、実態で見れば強制のようなものだ。当然、そこに属する世帯には世帯ごとの、もっと言えば個人の思想があり、信心がある。
小学生の拙い頭で、やれ信仰の自由が〜 宗教が〜 と、自立した考えを張り巡らせることこそ出来無いにせよ、小学生個人ではなく、家庭という大枠で捉えれば、各家庭での生活土台の一つとして、宗教は何らかの形で根差している筈だ。
 
 
そんなある意味パーソナルな家庭内の領域にまで、土足で上がり込んでくる子供会って奴は一体なんなんだろうと、今になって思うと、その異様さに、違和感と、義憤めいたものを覚えてしまう。
 
 
 
 
 
 
村だの地域だの子供会だの、コミュニティの大きさに程度はあれど、閉鎖された環境での当たり前には、危うい怖さがある。
 
 
 
 
門前の小僧習わぬ経を読む という言葉があるが、意味も分からず、理由も分からず、大きな声で正信偈を唱え続けていた当時の僕らは、まさしく何も知らない小僧そのものだった。

臭いと分かっていても、オナラを嗅ぎたい

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怖いもの見たさ という言葉がある。

怖いから見ちゃダメだと考えるほど、かえって好奇心を刺激され、ついつい見てしまうというアレだ。

 

この感覚はちゃんと心理効果として存在していて、カリギュラ効果という名前がついているそうで。

 

 

 

 

 

さて、この怖いもの見たさと同じ感覚で、僕の脳内には、臭いもの嗅ぎたさ が存在している。

 

 

 

いやもう滅茶苦茶汚い話で申し訳ないんだが、

うんことかオナラとか臭い玉とか、自身から産み落とされた物質がとてつもなく臭いという事実に、とてもゾクゾクする。

 

 

ただまぁ、臭ければ何にでも興奮する変人と思われても不愉快なのでことわっておくが、臭いものなら何でもいいわけじゃない。

自分の体から発せられる悪臭であることが重要なんだ。

 

例えばドリアンのような、臭いといえばコレ!みたいなヤツには

まったくゾクゾクしない 心躍らない。

あんなのはただの罰ゲームだ。 

 

更に言えば、このドリアンに関してはタチが悪い。

果物という自身の立場を利用して、臭さをアピールする狡猾さ。


「私って果物なのにこんなに臭いの♡ゾクゾクしない?」

 

論外である。つけあがるな

 

あんなものはクサイの押売りだ。そこに不快以外の感情は生まれない。

臭ければいいってもんじゃないんだ。 臭い界の頂点感を出すのはやめてくれ。

 

 

 

 

 

 

 

さて、ひっちゃかめっちゃか書いたが、

自分から産み落とされた物質が臭い

これが重要なのだ。

 

 

 

 

例えばオナラ

 

ふと気を許した瞬間、自分の体からこの悪臭が出ると分かった時の戦慄たるや

どんなに香り高い香水を身にまとっていても、あの人いい匂いだと周りから嘯かれるような体臭でも、その一切を覆してしまう圧倒的悪臭・・・!

 

 

これだ

 

 

どれほど身なりに気を遣おうが、清潔にしていようが、人は体から臭い物質を垂れ流してしまう。

 

クラスで一番イケメンで人気なサッカー部のアイツも、

仕事が出来ると評判のクールな二枚目上司も

 

するのだ、オナラを。

 

 

 

イケメンでも、仕事が出来る上司でも、

笑顔が眩しいアイドルだとしても、

臭いのだ、オナラは。

 

オナラは平等だ。

 

 

そして、その臭さはあまねく人を不快にする。

 

どんなにボディソープで体を洗いまくっても、人を不快にさせるほどの悪臭を体内から放出しているのだ。

 

このギャップにゾクゾクする。

 

 

 

 

風呂上がりのオナラなんてもう最高だ。

 

 

体を洗い清めて、汚れの一切を落としサッパリしたその瞬間、肛門の緩みとともに唐突の放屁。体を纏うボディソープの残香虚しく、放たれたソレは、ちゃんと臭い。

嗅いだ瞬間、清潔だと思い込んでいた自分が情けなくなるあの臭い。

 

 

嗚呼、風呂上がりのオナラの臭いを肴に、コーヒー牛乳で一杯やりたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

オナラ。

 

イケメンでも、アイドルでも、風呂上がりでも、どんな時でも容赦の無い乱暴な悪臭。 この容赦のなさに魅了され、この乱暴さにキュンとする。

 

 

 

恥も外聞もどうでもいい。羞恥心なんてクソ喰らえだ。

何でもいいから、あの臭さにもう一度会いたい。

 

 

 

 

 

 

 

恋、なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

好きだ、オナラが。

東名高速夫婦死亡事故に思うこと。...やっぱりDQNとは関わりたくない

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嘉久さんは手前のパーキングエリアで、ワゴン車の進路をふさぐように駐車していた石橋容疑者を注意したという。

 怒った石橋容疑者が高速道路上を約1キロにわたって追跡。後ろから接近した上、前に割り込んで減速し、一家の車を追い越し車線上に停止させた。車から降りて嘉久さんの胸ぐらをつかむなどした直後に、後ろから来たトラックがワゴン車に突っ込んだという。

 

最近頻繁に流れるこのニュース。

大変に胸糞悪い気分にさせられたニュースだ。

正しいことをしたはずの人間が悲しい目に遭う、そういった類のものを見るたびに、やり場のない憤りと共に、ただただやるせない気持ちになってしまう。

 

 

 

容疑者男性のような所謂DQN、こういう野蛮な人種が、身の回りにいることがもう恐ろしい。

そして、

「ああいうDQNには近づいてはいけない」

「触らぬ神に祟り無し」

と、自らに言い聞かせる。

 

 

――仮に遭遇したとして。

DQNが迷惑駐車をしていたとして。

見て見ぬふりをして、それで終わりだ。チラッと横目に見て不快感を蓄えつつ、次の瞬間にはもう、通り過ぎた過去の光景として扱い忘れ去る。

関わってもろくなことがないんだから。

危険を冒してまでああいう人種を更生させる義理は無いし、正義の名の下に鉄槌を下す義務もない。

奴らが自身の生活領域に踏み込んでこなければそれでいい。

 

――きっとこれが、処世の術としては最適解なんだろう。

最適解だからこそ、多数の人が見て見ぬ振りを決め込んでしまい、結果として、ああいう人種のモラルに欠けた振る舞いが世に蔓延ってしまうんだろうが。

 

 

 

 

「何をしでかすか分からない」そういう危険性を孕んだDQNに、面と向かって注意をする勇気は、僕にはない。

それでいて、そういうDQNのモラルに欠けた反社会的振る舞いに、僕の穏和な日常生活が勾引かされて欲しくないと願ってもいる。

 

DQNと関わらないのが処世術として最適解だからという理由で、見て見ぬ振りして過ごしておいて、その最適解が結果としてDQNを世に跋扈させることになると分かっていてなお、奴らが蔓延る日常は嫌だとのたまう。

 

ーー狡いな、と思う。

 

 

僕の日常に潜む反社会的な危険因子、それが、僕と関わりの無い何処かで、僕と関わりの無い誰かによって取り除かれ、そうした振る舞いに明け暮れるDQNに正義の鉄槌が下ることを望んでいるんだ。

 

ーー全くもって狡い考えだ。

 

 

 

中には、今回の被害者のように、危険を顧みずDQNに面と向かって注意をする、彼らのモラルに欠けた振る舞いに喝を入れる、そういうことのできる強い人間も、少数ながらいるんだろう。その人たちに重荷を押し付けてしまっているような、罪悪感にも近い感覚。

 

 

 

 

ーーなんだろう。

冒頭のニュースを見る度に感じるやるせなさは、こういう感覚に起因するものなのかもしれない。

正しいことをした筈の人間に災禍が降り注ぐ、そんな世の中への絶望と、自身は神風主義を貫きながら、被害者のような強い人間に寄りかかっていた罪悪感がごっちゃになって突き付けられ、どうにもやるせない気持ちに落ち込んでしまうんだろう。

面倒くさがりな不潔

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歯磨きが億劫だ。所要時間で言えばたかだか1分や2分そこらの単純な作業だが、その単純な作業がどうにもめんどくさく感じて、やらないまま寝てしまうことが多々ある。

ーー言うまでもなく、僕の吐息は少し臭い。

 

 

同様の理由で、洗濯が億劫だ。洗濯物を搔き集める、洗濯槽に洗剤をぶち込む、洗濯物を干す、乾いた洗濯物を畳む...想像しただけであまりのハードワークっぷりに吐き気すら催す。
よっぽど汗をかいてなければ一度着た服はそのまま着るし、バスタオルだって身体の水気を拭き取るだけなら、2〜3日同じものを使ったところでなんてことない。

ーー無論、僕の服は少し臭い。

 

 

 

 

「汚い!」
「不潔!」
...なんとでも言ってくれ。僕は清潔感に欠けた人間なんだ。

 

 


凄い気になるんだけど、本当に皆こんなめんどくさい作業をきちんとこなしてるのか。朝晩しっかり歯磨きをし、洗濯物が溜まったら洗濯をして...。
その上でアレだ、ムダ毛処理とか洗顔とか、やらなくてもそんなに影響が出ないであろうプラスα的な領域まで、ちゃちゃっとこなしてるというのか...?

 

そんな規則正しい清潔な生活を、自身を律して行なっているというのか。


あり得ない...全然アリエールじゃない。まったくもってあり得ない。

 

 


ーー勿論僕だって知っている。
歯を磨けば口元爽やかになることも、洗濯したての服に袖を通した時の引き締まるあの感じも、柔軟剤でふわふわになったバスタオルで身体を包む心地よさも、全部知ってる。

全部知った上でなお、めんどくさいのだ。

 

 

 


世間一般では僕みたいな人間は少数派で、不潔という烙印を押されるんだろうが、思うに、こういう不潔な生活を送る人ってもっと沢山いるよね。というかいてほしい。いてくれないと嫌だ。

 

本当にこれを見てるあなたは、平日朝のバタバタした時間にきちんと歯を磨いているというのか。

仕事でクタクタになって帰ってきても、貴重な余暇時間を削いでまで、洗濯とかいうハードワークをこなしているというのか。

 

 

高潔...高潔すぎる。もっとダラけたほうがいいんじゃないか。
そんな清潔な生活を皆が送ってるから、それが最早スタンダードになってるんだ。頼むからもうすこし清潔感とやらのハードルを下げてくれ。

 

 

世に跋扈する「清潔感」とかいう観念に乗り遅れた、僕みたいな人間はどうすればいいんだ。

 

ーーいや分かってる。ちゃんと歯を磨いて、きちんと洗濯すればいいんだろうけど、分かってるんだけど...ねぇ?

短い靴下を履く最近のJKに思うこと

 

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――最近のJKというのは、短めの靴下を履いて素足を多めに露出させる、というのが

"今風"なんだそうだ。

どうやら短い靴下の方が素足が見える面積が増えるため、脚が細く、長く見えるとか、ガーリーでお洒落な雰囲気を醸し出すことがてきるとか色々理由があるようで、いかに自分を可愛く見せるか?ということにエネルギーを注いでいる彼女らのその健気さと計算高さにはいつも感心させられる。


 

やれーーJKの足元というのは時代の経過とともに、それはもうめまぐるしく変化してきた。
ルーズソックスが爆発的に広がったと思えば、いつの間にかハイソックスが流行りだし、ルーズソックスは過去の産物と化した。そうかと認識していたのも束の間、今度はハイソックスの上からルーズソックスを履くというスタイルが流行りだしたりなんだで、今では短めの靴下が主流になっているという...

 

何がすごいって、ルーズソックスもハイソックスも短めの靴下もすべて、「脚を細く見せる」効果があると期待してのものだという。
時代は違えど目指すべき方向性が全くブレていない彼女らの芯の強さに、敬意を払わずにはいられない。というか足下に土下座して足蹴にされたい。

 

 

まぁ僕の本音は置いておくとして、こういうファッションの流行り廃りって、別にJKに限らずどこが火付け役になって広まっていくのか全く想像もつかない。

僕が知らないだけで、女子高生の靴下協会みたいなのが存在して、年に一度行われる重大っぽい会議で髭を蓄えた重鎮っぽいおっさんが一堂に会し、

「....今年は短めでいこう」

「...ふむ 悪くない」

みたいなやりとりを経て世間に浸透させているのか。

 

いやほんと、どうやって流行りがやってくるのか。


流行り出して皆が履きだすのか、それとも皆が履きだしたから流行りが生まれるのか...

マジヤバいから皆履くのか、皆が履くからマジヤバいのか...

タマゴが先か鶏が先か?このジレンマの謎は解けそうにない。

 

――とにかく、短い靴下が"今風"である以上、流行りを気にする彼女らはそれに乗らずにはいられない、流行りに乗れなければJKではなくなってしまうのだ。



が、この短い靴下には侃侃諤諤な意見があるようで、脚が細く見えて可愛いという意見もあれば、ハイソックスの方が清楚っぽくて良い等という意見もあり、今日もまたどこかで、変態達による論争が繰り広げられている。



 

 

さて、じゃあ僕はどうなのかというと、短い靴下、アリだと思う。
これは別に、短い靴下を履くJKの脚のフォルムが~~とか、ガーリーっぽい雰囲気が~~とか、そういう個人的な好き嫌い、性癖に基づく変態的思考では無い。

...本当だぞ 僕を変な目で見るな。


――僕は恐らく、流行りに乗ったファッションに身を包むjkが好きなのだ。
ルーズソックスを履いているか、短い靴下を履いているか、そこは重要では無い。
今を燦めくJK流行りのファッションを身につけていることに意味があり、魅力的なのだ。


つい最近まで、JKといえばハイソックスという認識があったために、学園モノのドラマやコスプレなんかでは、ハイソックスを履いているパターンが多い。
ハイソックスは最早一世代前の過去のファッションになりつつあるのに、だ。

世間がそんな前時代的なJK観に囚われている中で、流行りの最先端たる短い靴下のJKを街中なんかで見ると、そのJKが芸能人やコスプレイヤーが演じている前時代的な贋JKではなく、今をときめくキャピキャピのJKそのものだということを、痛烈に感じさせる。


そこにJKの可愛さが宿るのだ。


どんなにルーズソックスに可愛さを感じようと、ハイソックスに清楚っぽさを見出そうと、それらは既に過ぎ去った過去の流行でしかない。そのファッションをどれほど個人的に好いていたとしても、過ぎ去ったファッションとしてどこか古臭いイメージを伴って見てしまう。

僕は今を燦めくJKが好きなのであり、今流行っている短い靴下はそれを感じさせるアイテムでしかない。

 

そのため、もし仮に、来年あたりにJKの流行りのファッションとして、草鞋足袋なんてトンデモない流行りが生まれたとしよう。

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「今年の足元は江戸時代風で決まり!」なんてトンデモな女性雑誌のメッセージに踊らされ、こぞって草鞋足袋を履くJKに対しても、恐らく僕は、そのJK達に可愛さを感じてしまうだろう。

 

 

流行りに乗るJKにこそ価値があるのだから。




 

 

 

――ただどうか、草鞋足袋だけは流行らないでほしいと願う。