河童の裏庭

雑多な感じ

田舎の子供会と夏休みの読経の話

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子供の頃に当たり前だと思っていたことが、今になって考えてみると異様だと、ハッとすることがある。
 
 
 
小学生の夏休み、ラジオ体操をした後、近所の寺に行き、正信偈ーー浄土真宗のお経を読むことが、 毎朝の日課だった。
 
 
大人になった今も、周囲にこれを話すと結構珍しがられるが、確かに、今になって考えると、事情もよく分からぬまま地域の子らが集まって、皆して同じお経を唱えるその光景は、異様な経験として、頭の片隅にこびりついている。
 
 
 
 
 
子供ーーとりわけ小学生くらいの子らに対する教育観として、田舎ほど村社会というか、子供の育成は地域ぐるみでおこなうべき みたいな考え方があって、学校という大きな組織の他に、子供会という組織の存在が非常に大きな役割を果たしている。
 
 
小学校でも地域交流や縦割りでの交流はあるが、あくまで学校は学習を主とする場。
それとは別なコミュニティで、地域でのコミュニケーションだとか、周辺世帯交流だとかを主とした自治会の一種、「子供会」が存在するのだ。
 
 
 
 
こういう自治会の類は、地域によって活動頻度や内容に差があるが、その性質から、田舎の方ほど活発に活動してるように思う。
 
 
 
 
 
さて、僕の育った地元は、田園風景広がる紛う事なき田舎で、子供会の活動は活発だった。勿論自治会であるため加入に関しては任意なのだが、そんなものは建前で、ほぼほぼ強制だ。
入学と同時に子供会加入の書類が配布され、PTA同様、入ることが当然といった空気感が醸成されていた。
というより、加入しないものなら村八分といっても大袈裟ではないくらい、子供会は地域や学校と密接に関わっていた。
 
 
 
 
この子供会のイベントは様々あり、クリスマス会やひな祭り、新年会といった行事的な集まりは勿論、交通安全教室だとか、夏休みや冬休みの子供会旅行だとか、一年を通して、様々なイベントを地域世帯ぐるみで取り行っていた。
子供の頃は、こうした集まりで友達と交流出来て楽しかった思い出もあるが、これ、どうなんだろう。共働きだったうちの親は大変だったんだろうなぁとか、今になって思う。
 
 
 
 
まぁそんな感じで、地域交流という名目で、子供会には様々な行事があったが、その中でも一際異質に感じたのが、冒頭にも記した、夏休みの毎朝の正信偈読経だ。
朝6時半にラジオ体操をして、7時からは寺で読経 これが夏休みの毎朝の、僕等のルーティーンだった。
このラジオ体操〜読経という一連の流れも、子供会の企画・運営によるものだ。
 
 
 
狭いコミュニティにしか属さない僕らは、それが全国的に見れば珍しいことだなんて知る由もなく、この"当たり前"に取り組んだ。
 
 
 
 
 
宗教だとか寺社だとか、そのへんのことは今でもよく分かっていないが、僕の地域にはそこそこ立派なお寺があった。
その寺は浄土真宗西本願寺の宗派で、恐らく僕の地域では浄土真宗の宗派がメジャーだったんじゃなかろうか。
 
 
 
さて、この夏休みの読経に関しては、もちろんこの寺と子供会とが協力して成り立っているイベントだ。その内実や経緯については詳しくは知らないが、恐らく、子供の健全な成長を地域で支えるだとか、そういった子供会のニュアンスと読経に少なからず親和性を感じ取っての計らいだろう。
 
 
確かに遡れば、江戸時代の頃から、寺院は寺子屋として、地域の子供への学問指南を、一つの役割として担ってきた歴史がある。
そこにルーツを見るなら、何となくではあるが、子供会と寺との親和性に関しては、特段違和感は無い。
 
 
 
 
今になって覚える違和感はそこではない。
その地域の子育て世帯を束ねる、子供会という組織が主導で、特定の宗教・宗派の宗教行事を子供達に強制するということに、違和感を、そして怖さを覚える。
 
 
 
当時の僕等の中に、クリスチャンこそいなかったものの、当然、各家庭ごとに仏教の宗派は様々だった。
ご近所の信宗事情全てを把握しているわけではないが、友達との会話や近所の葬式を見聞きするに、浄土真宗以外に、日蓮宗真言宗の家庭も少なからず存在していた。
 
 
僕の地域は浄土真宗の存在が大きかったものの、全員が、全世帯が、浄土真宗を信仰しているわけではなかったのだ。
 そんな中で、地域に寺が浄土真宗のそこしか無いからといえ、なぜ正信偈読経なんて特定宗派の宗教行事を取り入れたのか、疑問が絶えない。
家の宗派が浄土真宗ではない子らは、幼いながら「家で読む経と違う」という違和感を少なからず抱いただろうし、「何で?」という疑念も生まれたことだろう。
心身共に未熟な小学生にとってのそのモヤモヤした違和感や疑念は、今になって思うに、信教を半ば強制されることへの忌避感だとか嫌悪感の萌芽だったのではなかろうか。
 
 
 
 
そもそも、憲法で保障されている筈の信教の自由は何処へ消えた。何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。」という有難い文言は、何処へ雲隠れしてしまったのか。
 
 
簡単な話だ。
地域や学校と密接に関わる「子供会」への加入は任意なのだ。この読経を拒みたくば、加入を拒めば良いだけの話。
その実、加入を拒めば地域・学校と隔絶された村八分を喰らうという実態があったとしても、形式的に任意を謳う以上、加入不加入の自由、ーー換言すれば、信教の自由は担保されている、というカラクリだ。
 
 
ーー何とも後味の悪い話である。
 
 
 
 
 
子供会は任意だが、実態で見れば強制のようなものだ。当然、そこに属する世帯には世帯ごとの、もっと言えば個人の思想があり、信心がある。
小学生の拙い頭で、やれ信仰の自由が〜 宗教が〜 と、自立した考えを張り巡らせることこそ出来無いにせよ、小学生個人ではなく、家庭という大枠で捉えれば、各家庭での生活土台の一つとして、宗教は何らかの形で根差している筈だ。
 
 
そんなある意味パーソナルな家庭内の領域にまで、土足で上がり込んでくる子供会って奴は一体なんなんだろうと、今になって思うと、その異様さに、違和感と、義憤めいたものを覚えてしまう。
 
 
 
 
 
 
村だの地域だの子供会だの、コミュニティの大きさに程度はあれど、閉鎖された環境での当たり前には、危うい怖さがある。
 
 
 
 
門前の小僧習わぬ経を読む という言葉があるが、意味も分からず、理由も分からず、大きな声で正信偈を唱え続けていた当時の僕らは、まさしく何も知らない小僧そのものだった。

臭いと分かっていても、オナラを嗅ぎたい

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怖いもの見たさ という言葉がある。

怖いから見ちゃダメだと考えるほど、かえって好奇心を刺激され、ついつい見てしまうというアレだ。

 

この感覚はちゃんと心理効果として存在していて、カリギュラ効果という名前がついているそうで。

 

 

 

 

 

さて、この怖いもの見たさと同じ感覚で、僕の脳内には、臭いもの嗅ぎたさ が存在している。

 

 

 

いやもう滅茶苦茶汚い話で申し訳ないんだが、

うんことかオナラとか臭い玉とか、自身から産み落とされた物質がとてつもなく臭いという事実に、とてもゾクゾクする。

 

 

ただまぁ、臭ければ何にでも興奮する変人と思われても不愉快なのでことわっておくが、臭いものなら何でもいいわけじゃない。

自分の体から発せられる悪臭であることが重要なんだ。

 

例えばドリアンのような、臭いといえばコレ!みたいなヤツには

まったくゾクゾクしない 心躍らない。

あんなのはただの罰ゲームだ。 

 

更に言えば、このドリアンに関してはタチが悪い。

果物という自身の立場を利用して、臭さをアピールする狡猾さ。


「私って果物なのにこんなに臭いの♡ゾクゾクしない?」

 

論外である。つけあがるな

 

あんなものはクサイの押売りだ。そこに不快以外の感情は生まれない。

臭ければいいってもんじゃないんだ。 臭い界の頂点感を出すのはやめてくれ。

 

 

 

 

 

 

 

さて、ひっちゃかめっちゃか書いたが、

自分から産み落とされた物質が臭い

これが重要なのだ。

 

 

 

 

例えばオナラ

 

ふと気を許した瞬間、自分の体からこの悪臭が出ると分かった時の戦慄たるや

どんなに香り高い香水を身にまとっていても、あの人いい匂いだと周りから嘯かれるような体臭でも、その一切を覆してしまう圧倒的悪臭・・・!

 

 

これだ

 

 

どれほど身なりに気を遣おうが、清潔にしていようが、人は体から臭い物質を垂れ流してしまう。

 

クラスで一番イケメンで人気なサッカー部のアイツも、

仕事が出来ると評判のクールな二枚目上司も

 

するのだ、オナラを。

 

 

 

イケメンでも、仕事が出来る上司でも、

笑顔が眩しいアイドルだとしても、

臭いのだ、オナラは。

 

オナラは平等だ。

 

 

そして、その臭さはあまねく人を不快にする。

 

どんなにボディソープで体を洗いまくっても、人を不快にさせるほどの悪臭を体内から放出しているのだ。

 

このギャップにゾクゾクする。

 

 

 

 

風呂上がりのオナラなんてもう最高だ。

 

 

体を洗い清めて、汚れの一切を落としサッパリしたその瞬間、肛門の緩みとともに唐突の放屁。体を纏うボディソープの残香虚しく、放たれたソレは、ちゃんと臭い。

嗅いだ瞬間、清潔だと思い込んでいた自分が情けなくなるあの臭い。

 

 

嗚呼、風呂上がりのオナラの臭いを肴に、コーヒー牛乳で一杯やりたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

オナラ。

 

イケメンでも、アイドルでも、風呂上がりでも、どんな時でも容赦の無い乱暴な悪臭。 この容赦のなさに魅了され、この乱暴さにキュンとする。

 

 

 

恥も外聞もどうでもいい。羞恥心なんてクソ喰らえだ。

何でもいいから、あの臭さにもう一度会いたい。

 

 

 

 

 

 

 

恋、なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

好きだ、オナラが。

東名高速夫婦死亡事故に思うこと。...やっぱりDQNとは関わりたくない

www.iza.ne.jp

嘉久さんは手前のパーキングエリアで、ワゴン車の進路をふさぐように駐車していた石橋容疑者を注意したという。

 怒った石橋容疑者が高速道路上を約1キロにわたって追跡。後ろから接近した上、前に割り込んで減速し、一家の車を追い越し車線上に停止させた。車から降りて嘉久さんの胸ぐらをつかむなどした直後に、後ろから来たトラックがワゴン車に突っ込んだという。

 

最近頻繁に流れるこのニュース。

大変に胸糞悪い気分にさせられたニュースだ。

正しいことをしたはずの人間が悲しい目に遭う、そういった類のものを見るたびに、やり場のない憤りと共に、ただただやるせない気持ちになってしまう。

 

 

 

容疑者男性のような所謂DQN、こういう野蛮な人種が、身の回りにいることがもう恐ろしい。

そして、

「ああいうDQNには近づいてはいけない」

「触らぬ神に祟り無し」

と、自らに言い聞かせる。

 

 

――仮に遭遇したとして。

DQNが迷惑駐車をしていたとして。

見て見ぬふりをして、それで終わりだ。チラッと横目に見て不快感を蓄えつつ、次の瞬間にはもう、通り過ぎた過去の光景として扱い忘れ去る。

関わってもろくなことがないんだから。

危険を冒してまでああいう人種を更生させる義理は無いし、正義の名の下に鉄槌を下す義務もない。

奴らが自身の生活領域に踏み込んでこなければそれでいい。

 

――きっとこれが、処世の術としては最適解なんだろう。

最適解だからこそ、多数の人が見て見ぬ振りを決め込んでしまい、結果として、ああいう人種のモラルに欠けた振る舞いが世に蔓延ってしまうんだろうが。

 

 

 

 

「何をしでかすか分からない」そういう危険性を孕んだDQNに、面と向かって注意をする勇気は、僕にはない。

それでいて、そういうDQNのモラルに欠けた反社会的振る舞いに、僕の穏和な日常生活が勾引かされて欲しくないと願ってもいる。

 

DQNと関わらないのが処世術として最適解だからという理由で、見て見ぬ振りして過ごしておいて、その最適解が結果としてDQNを世に跋扈させることになると分かっていてなお、奴らが蔓延る日常は嫌だとのたまう。

 

ーー狡いな、と思う。

 

 

僕の日常に潜む反社会的な危険因子、それが、僕と関わりの無い何処かで、僕と関わりの無い誰かによって取り除かれ、そうした振る舞いに明け暮れるDQNに正義の鉄槌が下ることを望んでいるんだ。

 

ーー全くもって狡い考えだ。

 

 

 

中には、今回の被害者のように、危険を顧みずDQNに面と向かって注意をする、彼らのモラルに欠けた振る舞いに喝を入れる、そういうことのできる強い人間も、少数ながらいるんだろう。その人たちに重荷を押し付けてしまっているような、罪悪感にも近い感覚。

 

 

 

 

ーーなんだろう。

冒頭のニュースを見る度に感じるやるせなさは、こういう感覚に起因するものなのかもしれない。

正しいことをした筈の人間に災禍が降り注ぐ、そんな世の中への絶望と、自身は神風主義を貫きながら、被害者のような強い人間に寄りかかっていた罪悪感がごっちゃになって突き付けられ、どうにもやるせない気持ちに落ち込んでしまうんだろう。

面倒くさがりな不潔

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歯磨きが億劫だ。所要時間で言えばたかだか1分や2分そこらの単純な作業だが、その単純な作業がどうにもめんどくさく感じて、やらないまま寝てしまうことが多々ある。

ーー言うまでもなく、僕の吐息は少し臭い。

 

 

同様の理由で、洗濯が億劫だ。洗濯物を搔き集める、洗濯槽に洗剤をぶち込む、洗濯物を干す、乾いた洗濯物を畳む...想像しただけであまりのハードワークっぷりに吐き気すら催す。
よっぽど汗をかいてなければ一度着た服はそのまま着るし、バスタオルだって身体の水気を拭き取るだけなら、2〜3日同じものを使ったところでなんてことない。

ーー無論、僕の服は少し臭い。

 

 

 

 

「汚い!」
「不潔!」
...なんとでも言ってくれ。僕は清潔感に欠けた人間なんだ。

 

 


凄い気になるんだけど、本当に皆こんなめんどくさい作業をきちんとこなしてるのか。朝晩しっかり歯磨きをし、洗濯物が溜まったら洗濯をして...。
その上でアレだ、ムダ毛処理とか洗顔とか、やらなくてもそんなに影響が出ないであろうプラスα的な領域まで、ちゃちゃっとこなしてるというのか...?

 

そんな規則正しい清潔な生活を、自身を律して行なっているというのか。


あり得ない...全然アリエールじゃない。まったくもってあり得ない。

 

 


ーー勿論僕だって知っている。
歯を磨けば口元爽やかになることも、洗濯したての服に袖を通した時の引き締まるあの感じも、柔軟剤でふわふわになったバスタオルで身体を包む心地よさも、全部知ってる。

全部知った上でなお、めんどくさいのだ。

 

 

 


世間一般では僕みたいな人間は少数派で、不潔という烙印を押されるんだろうが、思うに、こういう不潔な生活を送る人ってもっと沢山いるよね。というかいてほしい。いてくれないと嫌だ。

 

本当にこれを見てるあなたは、平日朝のバタバタした時間にきちんと歯を磨いているというのか。

仕事でクタクタになって帰ってきても、貴重な余暇時間を削いでまで、洗濯とかいうハードワークをこなしているというのか。

 

 

高潔...高潔すぎる。もっとダラけたほうがいいんじゃないか。
そんな清潔な生活を皆が送ってるから、それが最早スタンダードになってるんだ。頼むからもうすこし清潔感とやらのハードルを下げてくれ。

 

 

世に跋扈する「清潔感」とかいう観念に乗り遅れた、僕みたいな人間はどうすればいいんだ。

 

ーーいや分かってる。ちゃんと歯を磨いて、きちんと洗濯すればいいんだろうけど、分かってるんだけど...ねぇ?

短い靴下を履く最近のJKに思うこと

 

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――最近のJKというのは、短めの靴下を履いて素足を多めに露出させる、というのが

"今風"なんだそうだ。

どうやら短い靴下の方が素足が見える面積が増えるため、脚が細く、長く見えるとか、ガーリーでお洒落な雰囲気を醸し出すことがてきるとか色々理由があるようで、いかに自分を可愛く見せるか?ということにエネルギーを注いでいる彼女らのその健気さと計算高さにはいつも感心させられる。


 

やれーーJKの足元というのは時代の経過とともに、それはもうめまぐるしく変化してきた。
ルーズソックスが爆発的に広がったと思えば、いつの間にかハイソックスが流行りだし、ルーズソックスは過去の産物と化した。そうかと認識していたのも束の間、今度はハイソックスの上からルーズソックスを履くというスタイルが流行りだしたりなんだで、今では短めの靴下が主流になっているという...

 

何がすごいって、ルーズソックスもハイソックスも短めの靴下もすべて、「脚を細く見せる」効果があると期待してのものだという。
時代は違えど目指すべき方向性が全くブレていない彼女らの芯の強さに、敬意を払わずにはいられない。というか足下に土下座して足蹴にされたい。

 

 

まぁ僕の本音は置いておくとして、こういうファッションの流行り廃りって、別にJKに限らずどこが火付け役になって広まっていくのか全く想像もつかない。

僕が知らないだけで、女子高生の靴下協会みたいなのが存在して、年に一度行われる重大っぽい会議で髭を蓄えた重鎮っぽいおっさんが一堂に会し、

「....今年は短めでいこう」

「...ふむ 悪くない」

みたいなやりとりを経て世間に浸透させているのか。

 

いやほんと、どうやって流行りがやってくるのか。


流行り出して皆が履きだすのか、それとも皆が履きだしたから流行りが生まれるのか...

マジヤバいから皆履くのか、皆が履くからマジヤバいのか...

タマゴが先か鶏が先か?このジレンマの謎は解けそうにない。

 

――とにかく、短い靴下が"今風"である以上、流行りを気にする彼女らはそれに乗らずにはいられない、流行りに乗れなければJKではなくなってしまうのだ。



が、この短い靴下には侃侃諤諤な意見があるようで、脚が細く見えて可愛いという意見もあれば、ハイソックスの方が清楚っぽくて良い等という意見もあり、今日もまたどこかで、変態達による論争が繰り広げられている。



 

 

さて、じゃあ僕はどうなのかというと、短い靴下、アリだと思う。
これは別に、短い靴下を履くJKの脚のフォルムが~~とか、ガーリーっぽい雰囲気が~~とか、そういう個人的な好き嫌い、性癖に基づく変態的思考では無い。

...本当だぞ 僕を変な目で見るな。


――僕は恐らく、流行りに乗ったファッションに身を包むjkが好きなのだ。
ルーズソックスを履いているか、短い靴下を履いているか、そこは重要では無い。
今を燦めくJK流行りのファッションを身につけていることに意味があり、魅力的なのだ。


つい最近まで、JKといえばハイソックスという認識があったために、学園モノのドラマやコスプレなんかでは、ハイソックスを履いているパターンが多い。
ハイソックスは最早一世代前の過去のファッションになりつつあるのに、だ。

世間がそんな前時代的なJK観に囚われている中で、流行りの最先端たる短い靴下のJKを街中なんかで見ると、そのJKが芸能人やコスプレイヤーが演じている前時代的な贋JKではなく、今をときめくキャピキャピのJKそのものだということを、痛烈に感じさせる。


そこにJKの可愛さが宿るのだ。


どんなにルーズソックスに可愛さを感じようと、ハイソックスに清楚っぽさを見出そうと、それらは既に過ぎ去った過去の流行でしかない。そのファッションをどれほど個人的に好いていたとしても、過ぎ去ったファッションとしてどこか古臭いイメージを伴って見てしまう。

僕は今を燦めくJKが好きなのであり、今流行っている短い靴下はそれを感じさせるアイテムでしかない。

 

そのため、もし仮に、来年あたりにJKの流行りのファッションとして、草鞋足袋なんてトンデモない流行りが生まれたとしよう。

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「今年の足元は江戸時代風で決まり!」なんてトンデモな女性雑誌のメッセージに踊らされ、こぞって草鞋足袋を履くJKに対しても、恐らく僕は、そのJK達に可愛さを感じてしまうだろう。

 

 

流行りに乗るJKにこそ価値があるのだから。




 

 

 

――ただどうか、草鞋足袋だけは流行らないでほしいと願う。






「リア充」という概念が怖い

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インターネットスラングとしてうまれたリア充という言葉、この言葉がネットの世界を飛び出して、学生を始めとする若い人達の共通認識として跋扈していることに、雑然とした恐怖を感じるのは僕だけか。

 


この「リア充」という言葉、使う場面や使う人の認識により意味は若干異なれど 、

実際の現実の生活(リアル生活)が充実している人間のこと。
恋人や友人付き合いに恵まれる
サークル活動や飲み会へ参加する

(はてなキーワードより)

と、まぁこんなような定義が一般化しているようで、実際僕の周りで耳にする「リア充」の意味も、大体こんな感じだ。


2ちゃんねるから生まれたこのインターネットスラングは、言葉のシンプルさとか汎用性の高さもあってか、いつの間にか爆発的に普及し、今や完全に若者言葉として定着している。

事実、2011年には女子中高生ケータイ流行語大賞の金賞に抜擢されている。...金賞ですよ、金賞。
一体この賞がどんなものなのかいまいちピンとこないが、渋谷かどっかで「まじヤベェ」とか息巻いてる女子中高生にまで「リア充」という言葉が浸透しきっていることを意味するのだろう、きっと。

 

そんなこんなで「リア充」が定着していったわけだが、最近はもう、このリア充というワードが、リアルが充実している様子を表す"言葉"を通り越して、その人の人生の充実具合を測る"基準"として、概念化してしまっているように思えて仕方がない。そのことに一抹の怖さを感じる。

 

高校生や大学生、社会に出る前の段階にある彼ら学生にとって、友達の多さとか、恋人の有無とか、飲み会の多さなんかが、充実具合を図る基準として、一種のステータスのように語られるのはまぁ、至極当然のことだと思う。これ自体はきっと、「リア充」という言葉が世に生み出される前にも、何となく存在はしていたんだろう。


ーーが、「リア充」という言葉が一般化した今や、友達の多さとか恋人の有無だとかの基準が明確化し、その研ぎ澄まされた基準によって、僕たちの人生の充実具合を測られてしまっているような気がしてならない。
リア充の定義や基準が若者の中には明確にインプットされ、それらを満足に満たせないと、周囲から「アイツはリア充ではない」という烙印を押されてしまう。


この不名誉な烙印が押されることを恐れるあまり、僕は実生活で自分を殺し、「リア充」であることを演じるというケースがしばしばある。
酒の席で普段以上に明るく振る舞ってみたり、チャラめなサークルに顔を出して人脈を築こうとしたり...そういった仮面の振る舞いを、どこか背伸びして行っている節がある。
本心からそうすることを望んでいたわけではないし、その振る舞いが自分のありのままの姿かというと断じてそうではない。
僕の頭の中のどこかには、リア充として振舞わなければ」という強迫観念が存在し、リア充と認識してほしい」という自尊心がべったりとこびりついていた。


そんなだから僕は、飲み会だとかバーベキューだとか、そういう所謂リア充的なイベントに参加すると、途端に安堵感に包まれる。
勿論、気心知れた友人や先輩後輩と飲んだりするのは実際楽しい時間で、有意義なものだと思う。が、そういった感情より先に、リア充的な振る舞いが出来ている」ということに、底知れぬ安心を覚えてしまう。


ーーもうなんだか、僕の行住坐臥全てが、リア充的かどうか」でカテゴライズされてるような気さえしてきた。


勿論、自分のリアルが充実しているかどうかなんて、他の誰でもない僕によって測られるべきだ。
仮に僕のリアルがリア充の定義から外れるようなものだとしても、僕が人生を楽しいと思えれば、その主観を大切に受容してあげさえすればそれでいい。
...筈なのだが、どうしても周囲からリア充ではない」という烙印を押し当てられることに抵抗がある。そんなのを物ともせずに堂々としていられたらそれが一番なんだろうが、どうにも僕はそこまで強い人間じゃないらしい。

 

 

ーーだから僕はリア充という概念が怖い。
現実世界の充実具合なんていう、本来主観的な基準を、「リア充」という他人が作った基準に落とし込んで考えてしまう歪さが怖いし、その他人が作った基準が一般化し、常にその物差しで自身が測定されているかと思うとゾクゾクする。

 

リア充という概念が一般化した今、周囲の人から「アイツはリア充ではない」と思われないよう、怯えながら過ごしている。

田舎で語られる、雪に関する言い伝えの話

 

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僕の地元には「山に3回雪が積もると、雪が人里に降りてくる」という言い伝えがある。
自然豊かな田舎に根付くこの言い伝えは、言葉通り、遠く聳える山に3度雪が積もれば、里にも雪が降り始める...という意味だ。僕はこの伝聞が何故だか異様に好きで、冬になるたびこの言葉が頭をよぎる。

 

 

 

ーー勿論、この言い伝えには何の科学的根拠もない。山に1度だけ雪が積もったと思ったら、次の日には町にも雪がしんしんと降っている...なんてこともザラで、冷静に観測してみるとてんで当てにならない言い伝えだ。テレビの天気予報でも見た方が、よっぽど明確に降雪の有無を知ることができるだろう。

 

にも関わらず、僕の町では「山に3回雪が降ると、人里にも雪が降る」という言い伝えが、まことしやかに語られている。両親や祖父母も、学校の先生も、近所のおっちゃんおばちゃんも、大人も子供もおねーさんも、冬になると皆こぞってこの言い伝えを口にし、遠く聳える山々を観測し始める。
「あの山の白いのは1回目やろか」
「こないだも積もってたから2回目やないか?」
「そいじゃそろそろかねえ?」
といった具合で積雪へのカウントダウンが始まり、天気予報など全く意に介さず、町全体がこの言い伝えを持ち上げ、嘯きだすのだ。


無論僕も例外ではなく、この言い伝えを盲信していた1人だ。小さい頃、寒い冬の朝、雪が降るのを待ち遠しく思いながら、毎朝遠くの山々を見上げていたのが懐かしい。

 

ーー雪の中で遊ぶことは、子どもの頃の僕には凄く刺激的なことだった。そりに雪合戦に雪山探検、あらゆる遊びがいつもとは違う、非日常に彩られたもので、雪が降るたびにワクワクし、心が躍った。

そんな雪への憧憬を、白くなりつつある山を見上げることで、町全体で共有していた。「山に3回雪が降ると、人里にも雪が降りてくる」という根も葉もない言い伝えを信じて、「そろそろ里にも雪が降るんじゃないか」と町全体がそわそわしだす、あの独特な空気感が堪らなく好きだった。

 

 

 

ーー天気予報も何もない時代、山の状態から天候を読み取り、生活に役立てていた先人達の知恵が言い伝えとなって、正確無比な天気予報が存在する今尚、連綿と語り継がれ、定着しているのだ。
「雪がいつ降るかなんて天気予報見たらすぐ分かるじゃん」などという無粋な突っ込みはどうか控えてもらいたい。

まだかまだかと雪に想いを馳せながら、毎朝部屋の窓から山を見上げるあのワクワク感は、どうにも言葉では上手く書き表せないが、僕の中では確かに、冬の風物詩として今なお息づいているのだ。