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河童の裏庭

雑多な感じ

カラオケの「最初の一曲」を巡って

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友人とカラオケに行き、最初の一曲をどちらが歌うか?という所で、目に見えない壮絶な駆け引きがなされているのはご存じだろうか。

「先歌っていいよ」

「いや、だりぃからいいわ」

「いやいや、俺トイレ行きたいし」

「いやいやいや、俺もトイレ行きたいし」

こんなような具合で、お互い最初の1曲を譲り合う

さっきまで「カラオケ行こうぜ」と軽々しく騒いでいたとは思えない、何とも言えぬ緊張感が空間一面を支配しているのだ。

 

日本人は謙虚で礼を重んじ、相手を尊重し譲り合いの心を持つ…ともすれば日本人の国民性をこんな言葉で着飾り、褒め称えてくれる外国人がいるが、あれは嘘だ。

あの譲り合いは謙虚さからくるものではないことを僕は知っている。

あれはお互いの歌唱力…もとい、戦闘力を測ろうとしての「譲り合い」なのだ。

 

 

――まったく、人というのは、恥をかくことを極度に嫌う。それが気心知れた友人の前であればなおのことだ。カラオケは「皆で歌って楽しむもの」という認識が一般的だが、あんなものは嘘っぱちだ。虚飾塗れの妄言と言っていい。実際は、血で血を洗う闘争が繰り広げられるコロシアムとでも言ったほうがよっぽど的確だ。

 

―そう、カラオケには確かに勝敗が存在する。皆も感じたことがある筈だ。

自分よりべらぼうに歌唱力のある友人と二人でカラオケに行った際、そこに「皆で歌って楽しむ」なんて生やさしい感情は生まれない。痛感するはただただ己の無力感、それだけだ。

カラオケで敗者となった者は、歌うこと以外することのない閉鎖空間において、相手の美声に憤りを感じながら己の無力さを恥じ、いざ自分の番になれば、勝てないと分かりきっている勝負のステージに上らねばならず、相手よりも遥かに程度の低い歌唱力を曝け出さなければならない。何たる苦痛…何たる醜態…もういっそひと思いに殺してくれ。

――まったく、これだけ聞くと、何故金を払ってこんな罰ゲームに参加しなきゃならんのだと思うが、それを補って余りあるほどの美酒が勝者には用意され、それによってカラオケというコンテンツは成り立っているのだ。

カラオケにおける勝者―つまり相手よりも歌唱力が優れていた場合はどうなるか?鎧袖一触で相手を嬲り倒す快感に何時間も浸ることが許されるのである。ドリンクバーで注いだコーラはビンテージ物の赤ワインに早変わりし、安っぽい部屋の内装は絢爛豪華な宮殿の一室へと変貌を遂げる。高々と足を組み、敗者を見下しながら快感に浸り続けることを許される、極楽浄土の空間を堪能できるのだ。

 

 

「暇だしカラオケ行こうぜ」こんな飄々とした軽い言葉で誘ってこそいるものの、その裏では自分が勝者の座に君臨出来るのか、それとも敗者に身を窶してしまうのか、戦々恐々とした心理がフルに働いているのだ。

…それ故最初の1曲というのは敬遠されがちなのだ。武士どうしが初めて剣を交える瞬間なのだから。

この立ち合い、先手は自身の最大の力を出し切り全力で歌う選択肢しかないのであるが、後手に回れば応用が効く。先に歌った相手の戦闘力にひれ伏すしかないと感じれば、ネタに走る、仮病を装う、或いは静かに部屋を出てそのまま自宅に帰ることすら選択肢の一つに成り得る。正に「柔よく剛を制す」である。

 

 

「先歌っていいよ」

「いや、だりぃからいいわ」

「いやいや、俺トイレ行きたいし」

「いやいやいや、俺もトイレ行きたいし」

この一見何でもない譲り合いのやりとりの中には、何が何でも勝者の座に君臨したいとする男同士のプライドが内包されており、この空間で敗者に身を窶すことを譲り合っているのだ。そのためには、すこぶる元気であるにも関わらずだるさを訴え、出る気配もない小便の存在をでっちあげトイレに行きたいと虚言を弄することすら厭わない。

 

――やれ、日本人は争いを好まないだとか平和ボケしているとか、根も葉もない流言が蔓延っているがとんでもない。

こうしている今も、カラオケの一室では”譲り合い”が繰り広げられているのだ。