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河童の裏庭

雑多な感じ

「リア充」という概念が怖い

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インターネットスラングとしてうまれたリア充という言葉、この言葉がネットの世界を飛び出して、学生を始めとする若い人達の共通認識として跋扈していることに、雑然とした恐怖を感じるのは僕だけか。

 


この「リア充」という言葉、使う場面や使う人の認識により意味は若干異なれど 、

実際の現実の生活(リアル生活)が充実している人間のこと。
恋人や友人付き合いに恵まれる
サークル活動や飲み会へ参加する

(はてなキーワードより)

と、まぁこんなような定義が一般化しているようで、実際僕の周りで耳にする「リア充」の意味も、大体こんな感じだ。


2ちゃんねるから生まれたこのインターネットスラングは、言葉のシンプルさとか汎用性の高さもあってか、いつの間にか爆発的に普及し、今や完全に若者言葉として定着している。

事実、2011年には女子中高生ケータイ流行語大賞の金賞に抜擢されている。...金賞ですよ、金賞。
一体この賞がどんなものなのかいまいちピンとこないが、渋谷かどっかで「まじヤベェ」とか息巻いてる女子中高生にまで「リア充」という言葉が浸透しきっていることを意味するのだろう、きっと。

 

そんなこんなで「リア充」が定着していったわけだが、最近はもう、このリア充というワードが、リアルが充実している様子を表す"言葉"を通り越して、その人の人生の充実具合を測る"基準"として、概念化してしまっているように思えて仕方がない。そのことに一抹の怖さを感じる。

 

高校生や大学生、社会に出る前の段階にある彼ら学生にとって、友達の多さとか、恋人の有無とか、飲み会の多さなんかが、充実具合を図る基準として、一種のステータスのように語られるのはまぁ、至極当然のことだと思う。これ自体はきっと、「リア充」という言葉が世に生み出される前にも、何となく存在はしていたんだろう。


ーーが、「リア充」という言葉が一般化した今や、友達の多さとか恋人の有無だとかの基準が明確化し、その研ぎ澄まされた基準によって、僕たちの人生の充実具合を測られてしまっているような気がしてならない。
リア充の定義や基準が若者の中には明確にインプットされ、それらを満足に満たせないと、周囲から「アイツはリア充ではない」という烙印を押されてしまう。


この不名誉な烙印が押されることを恐れるあまり、僕は実生活で自分を殺し、「リア充」であることを演じるというケースがしばしばある。
酒の席で普段以上に明るく振る舞ってみたり、チャラめなサークルに顔を出して人脈を築こうとしたり...そういった仮面の振る舞いを、どこか背伸びして行っている節がある。
本心からそうすることを望んでいたわけではないし、その振る舞いが自分のありのままの姿かというと断じてそうではない。
僕の頭の中のどこかには、リア充として振舞わなければ」という強迫観念が存在し、リア充と認識してほしい」という自尊心がべったりとこびりついていた。


そんなだから僕は、飲み会だとかバーベキューだとか、そういう所謂リア充的なイベントに参加すると、途端に安堵感に包まれる。
勿論、気心知れた友人や先輩後輩と飲んだりするのは実際楽しい時間で、有意義なものだと思う。が、そういった感情より先に、リア充的な振る舞いが出来ている」ということに、底知れぬ安心を覚えてしまう。


ーーもうなんだか、僕の行住坐臥全てが、リア充的かどうか」でカテゴライズされてるような気さえしてきた。


勿論、自分のリアルが充実しているかどうかなんて、他の誰でもない僕によって測られるべきだ。
仮に僕のリアルがリア充の定義から外れるようなものだとしても、僕が人生を楽しいと思えれば、その主観を大切に受容してあげさえすればそれでいい。
...筈なのだが、どうしても周囲からリア充ではない」という烙印を押し当てられることに抵抗がある。そんなのを物ともせずに堂々としていられたらそれが一番なんだろうが、どうにも僕はそこまで強い人間じゃないらしい。

 

 

ーーだから僕はリア充という概念が怖い。
現実世界の充実具合なんていう、本来主観的な基準を、「リア充」という他人が作った基準に落とし込んで考えてしまう歪さが怖いし、その他人が作った基準が一般化し、常にその物差しで自身が測定されているかと思うとゾクゾクする。

 

リア充という概念が一般化した今、周囲の人から「アイツはリア充ではない」と思われないよう、怯えながら過ごしている。