河童の裏庭

雑多な感じ

田舎の子供会と夏休みの読経の話

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子供の頃に当たり前だと思っていたことが、今になって考えてみると異様だと、ハッとすることがある。
 
 
 
小学生の夏休み、ラジオ体操をした後、近所の寺に行き、正信偈ーー浄土真宗のお経を読むことが、 毎朝の日課だった。
 
 
大人になった今も、周囲にこれを話すと結構珍しがられるが、確かに、今になって考えると、事情もよく分からぬまま地域の子らが集まって、皆して同じお経を唱えるその光景は、異様な経験として、頭の片隅にこびりついている。
 
 
 
 
 
子供ーーとりわけ小学生くらいの子らに対する教育観として、田舎ほど村社会というか、子供の育成は地域ぐるみでおこなうべき みたいな考え方があって、学校という大きな組織の他に、子供会という組織の存在が非常に大きな役割を果たしている。
 
 
小学校でも地域交流や縦割りでの交流はあるが、あくまで学校は学習を主とする場。
それとは別なコミュニティで、地域でのコミュニケーションだとか、周辺世帯交流だとかを主とした自治会の一種、「子供会」が存在するのだ。
 
 
 
 
こういう自治会の類は、地域によって活動頻度や内容に差があるが、その性質から、田舎の方ほど活発に活動してるように思う。
 
 
 
 
 
さて、僕の育った地元は、田園風景広がる紛う事なき田舎で、子供会の活動は活発だった。勿論自治会であるため加入に関しては任意なのだが、そんなものは建前で、ほぼほぼ強制だ。
入学と同時に子供会加入の書類が配布され、PTA同様、入ることが当然といった空気感が醸成されていた。
というより、加入しないものなら村八分といっても大袈裟ではないくらい、子供会は地域や学校と密接に関わっていた。
 
 
 
 
この子供会のイベントは様々あり、クリスマス会やひな祭り、新年会といった行事的な集まりは勿論、交通安全教室だとか、夏休みや冬休みの子供会旅行だとか、一年を通して、様々なイベントを地域世帯ぐるみで取り行っていた。
子供の頃は、こうした集まりで友達と交流出来て楽しかった思い出もあるが、これ、どうなんだろう。共働きだったうちの親は大変だったんだろうなぁとか、今になって思う。
 
 
 
 
まぁそんな感じで、地域交流という名目で、子供会には様々な行事があったが、その中でも一際異質に感じたのが、冒頭にも記した、夏休みの毎朝の正信偈読経だ。
朝6時半にラジオ体操をして、7時からは寺で読経 これが夏休みの毎朝の、僕等のルーティーンだった。
このラジオ体操〜読経という一連の流れも、子供会の企画・運営によるものだ。
 
 
 
狭いコミュニティにしか属さない僕らは、それが全国的に見れば珍しいことだなんて知る由もなく、この"当たり前"に取り組んだ。
 
 
 
 
 
宗教だとか寺社だとか、そのへんのことは今でもよく分かっていないが、僕の地域にはそこそこ立派なお寺があった。
その寺は浄土真宗西本願寺の宗派で、恐らく僕の地域では浄土真宗の宗派がメジャーだったんじゃなかろうか。
 
 
 
さて、この夏休みの読経に関しては、もちろんこの寺と子供会とが協力して成り立っているイベントだ。その内実や経緯については詳しくは知らないが、恐らく、子供の健全な成長を地域で支えるだとか、そういった子供会のニュアンスと読経に少なからず親和性を感じ取っての計らいだろう。
 
 
確かに遡れば、江戸時代の頃から、寺院は寺子屋として、地域の子供への学問指南を、一つの役割として担ってきた歴史がある。
そこにルーツを見るなら、何となくではあるが、子供会と寺との親和性に関しては、特段違和感は無い。
 
 
 
 
今になって覚える違和感はそこではない。
その地域の子育て世帯を束ねる、子供会という組織が主導で、特定の宗教・宗派の宗教行事を子供達に強制するということに、違和感を、そして怖さを覚える。
 
 
 
当時の僕等の中に、クリスチャンこそいなかったものの、当然、各家庭ごとに仏教の宗派は様々だった。
ご近所の信宗事情全てを把握しているわけではないが、友達との会話や近所の葬式を見聞きするに、浄土真宗以外に、日蓮宗真言宗の家庭も少なからず存在していた。
 
 
僕の地域は浄土真宗の存在が大きかったものの、全員が、全世帯が、浄土真宗を信仰しているわけではなかったのだ。
 そんな中で、地域に寺が浄土真宗のそこしか無いからといえ、なぜ正信偈読経なんて特定宗派の宗教行事を取り入れたのか、疑問が絶えない。
家の宗派が浄土真宗ではない子らは、幼いながら「家で読む経と違う」という違和感を少なからず抱いただろうし、「何で?」という疑念も生まれたことだろう。
心身共に未熟な小学生にとってのそのモヤモヤした違和感や疑念は、今になって思うに、信教を半ば強制されることへの忌避感だとか嫌悪感の萌芽だったのではなかろうか。
 
 
 
 
そもそも、憲法で保障されている筈の信教の自由は何処へ消えた。何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。」という有難い文言は、何処へ雲隠れしてしまったのか。
 
 
簡単な話だ。
地域や学校と密接に関わる「子供会」への加入は任意なのだ。この読経を拒みたくば、加入を拒めば良いだけの話。
その実、加入を拒めば地域・学校と隔絶された村八分を喰らうという実態があったとしても、形式的に任意を謳う以上、加入不加入の自由、ーー換言すれば、信教の自由は担保されている、というカラクリだ。
 
 
ーー何とも後味の悪い話である。
 
 
 
 
 
子供会は任意だが、実態で見れば強制のようなものだ。当然、そこに属する世帯には世帯ごとの、もっと言えば個人の思想があり、信心がある。
小学生の拙い頭で、やれ信仰の自由が〜 宗教が〜 と、自立した考えを張り巡らせることこそ出来無いにせよ、小学生個人ではなく、家庭という大枠で捉えれば、各家庭での生活土台の一つとして、宗教は何らかの形で根差している筈だ。
 
 
そんなある意味パーソナルな家庭内の領域にまで、土足で上がり込んでくる子供会って奴は一体なんなんだろうと、今になって思うと、その異様さに、違和感と、義憤めいたものを覚えてしまう。
 
 
 
 
 
 
村だの地域だの子供会だの、コミュニティの大きさに程度はあれど、閉鎖された環境での当たり前には、危うい怖さがある。
 
 
 
 
門前の小僧習わぬ経を読む という言葉があるが、意味も分からず、理由も分からず、大きな声で正信偈を唱え続けていた当時の僕らは、まさしく何も知らない小僧そのものだった。